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先日、1時間ほど電車に乗って行く用事があったので、そのお供にちょうどよさそうな本として村上春樹の『雨天炎天』を選んだ。7年ぶりくらいの再読。

雨天炎天雨天炎天
著者:村上 春樹
新潮社(2008-02-29)
販売元:Amazon.co.jp
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この本は、バブルのピーク(そして崩壊しかけ)の1990年頃に書かれたもので、ギリシャ正教の聖地「アトス」と「トルコ」の旅行記がまとめられている。

アトスは、ギリシャ国内にありながら治外法権が認められ、「アトス自治修道士共和国」として政治的にも地理的にも(ほぼ)独立した世界だ。Wikipediaによれば、アトス半島には7世紀ころから修道士たちが暮らしはじめ、現在でも約2,000人の修行僧が、女人禁制のもと、祈りと労働の生活を送っている。

よりおもしろいのは、このアトス編。

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おもしろみの核は、前近代の「宗教文明」が色濃く残る世界に、「近代文明」の象徴のひとつであるような1990年の東京から、物質の記号性を誰よりもうまく小説に取り込んだ村上春樹という小説家が訪れる、という構造にある。

作者はそれに自覚的で、「リアル・ワールド」というキーワードを使って、そのふたつの世界の距離を表現している。

アトス編に付けられた副題は「神様のリアル・ワールド」だし、第一章のタイトルは「さよならリアル・ワールド」。この場合の「リアル・ワールド」というのは、「現世」とか「俗世」という意味合いだ(たぶんそう言っていいと思う)。

この旅行記を通して作者は、近代文明では体験できないさまざまな不便や困難のなかで、現世的で俗世的な食事やサービスを受けたいと願い、不平不満を言いながら、でも、この宗教文明にある種の愛おしさを感じるようになる。その距離ゆえに。

そして最後は、「さて、どっちが本当のリアル・ワールドなんだろう?」という問いを投げかけて唐突な感じで旅行記が終わる。この場合の「リアル・ワールド」は、私が思うに「魂の寄る辺」みたいな意味。つまりこういうことだ。

どちらの世界が、自分の魂の寄る辺なんだろう?

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でも、『雨天炎天』の刊行から20年が経った現時点からすると、この問いかけの賞味期限がすでに切れていると感じる。

1990年における教養人の望ましいふるまいとは、前近代的文明に接したときに、自分が属する近代文明を疑って「どちらの世界が、自分の魂の寄る辺なんだろう?」と悩むことだった。それにはコンセンサスがあったし、そういう感性こそが教養であり、良心だったと思う。

しかし今後はどうだろうか?

縮小していく経済、占有から共有への移行、モノを長く大事に使おうとする文化の復活、などなど、あまりうまく言葉にはできないけれど、新しい価値観の社会の黎明期である現在の私の感性からすると、この問いに完全にはあまり共感できない。もし自分がいまアトス半島へ行けたとして、少なくとも、日本に(も)生まれつつある新しい価値観の社会を疑ったりはしないだろうという気がする。

1990年の村上春樹による問いが、宗教文明と近代文明の距離ゆえに成立したものだとすると、2011年のほうがアトス半島の宗教文明に精神的な距離が近くなっているぶんだけ、根拠の足場が弱くなった、ということかもしれない。


その意味でこの本は、定点観測に向いていると思う。「どちらの世界が、自分の魂の寄る辺なんだろう?」という問いがもっとも有効だった1990年から、私たちの感性がどれだけ遠ざかっていくかを測るのに使えるんじゃないかと思う。
あるいは、天気のよい休日に電車に乗ってちょうどよい距離のおでかけをするときのお供にも。


雨天炎天雨天炎天
著者:村上 春樹
新潮社(2008-02-29)
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