カテゴリ:
かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう。という時代が終わって、かっこいいことが普通にかっこいいことになっている、とよく思うようになりました。

まさかこんなふうに価値観が変わるだなんて!

今の自分がタイムマシンで1980年代〜90年代の自分に会いに行ってそんなことを伝えても、絶対に信じてくれないと思う。というか、未来の自分がダサいことを言っているのを見て愕然とすると思うw

かつては、悪ぶって、反抗して、ドント・トラスト・オーバー・サーティーな感じの「偽悪」的な態度が一番かっこよかった。逆に、本気だったり、熱血だったりする「偽善」的な態度は一番イケてない。そんな価値観だったと思います。

「偽悪」という言葉を意識するようになってみると、「偽悪的なことがかっこわるい世の中にになって、偽善的なことがかっこよい世の中に変化してきているんじゃないか」という指摘のヒントをいろんなところで見つけるようになりました。

最近は、岡田斗司夫が文学について語った一節の中にありました。
ちょっと長いけど、2010年代の表現行為のベースになるような問題を示唆していると思うので、まるっと引用します。

二十一世紀の現在、僕は「表現の自由」という価値観に、全面的には賛成出来ません。

かつて民主主義システムが構築される前の時代、文学は「人格のあるべき姿」を描いていました。そのシステムが完成されて以降は、文学はシステムの中で生きられない人間、弱い人間、システムの中で生きているはずのない人間を描きました。

システムが完成されればされるほど、民主主義が完成されればされるほど、人間というのはどんどん不幸せになっていく。だからそれを書かなきゃ駄目なんだ、という考え方です。

社会のシステムが絶対に崩れない、盤石な状態の場合、「表現の自由」という価値観も有効かもしれません。

しかし、歴史的な視野でみると、盤石なものなどあるはずもない。クリエイターがシステムの強固さを前提に表現の自由を追求して、民主主義の崩れる様とか、民主主義の矛盾とか、暴力とかを書いてきた結果、世の中のシステムは揺らいできています。

社会システムというのは、実は簡単に崩れることが実感できるほどに危うくなってきているのです。

ディズニーランドがディズニーランドとして完璧なシステムであった頃は、その中でこんな馬鹿なことをやったという武勇伝は、武勇伝たりうる面白い話です。が、ディズニーランドがもう崩れてしまって、荒廃した遊園地になって誰もルールを守らなくなってくると、もう一度みんなの手でディズニーランドを再生しようじゃないか、という考え方が必要になってきます。

現代社会というのは、そういう時代のターニングポイントを越えてしまったと思います。「二十一世紀後半、文学にしてもアニメにしても、あらゆる芸術が、芸術という建前を掲げて、散々楽しんだ。そろそろ本道に戻って、人格とか道徳というものを語ったほうがいいんじゃないかな」というのが、僕の考えです。


遺言遺言
著者:岡田 斗司夫
販売元:筑摩書房
(2010-10-23)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

岡田斗司夫『遺言』 p264


ちょっと補足が必要だと思うので書き足します。

最初の『文学は「人格のあるべき姿」を描いていました』で言っているのは、ドストエフスキーや夏目漱石のような19世紀から20世紀前半的な文学のこと。

一方の『システムの中で生きられない人間、弱い人間、システムの中で生きているはずのない人間を描きました』というのは、それこそ現代の文学のほとんどがこれに該当するわけですが、とりわけ筒井康隆を引き合いに出していました。

自分なりに一番理解しやすかったのは、村上春樹。特に「壁と卵」というスピーチには、現代文学が寄って立つ基本的な価値観がそのまま語られています。

その壁の名前は「システム」です。「システム」は私たちを守る存在と思われていますが、時に自己増殖し、私たちを殺し、さらに私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ始めるのです。

【日本語全訳】村上春樹「エルサレム賞」受賞スピーチ


村上春樹の小説の主人公はみな、小さな会社を経営していたり、フリーランスだったり、主夫だったり、巨大で冷徹なシステムとは対局に位置していていますしね。


話を岡田斗司夫の文章に戻すと、なんといってもディズニーランドのたとえがわかりやすい。

要するに、システムが完璧に動いているときには、それに反抗することがかっこいいけれど、すでに崩壊してしまったシステムに反抗してみせる態度はイケてない、ということです。

夜の校舎窓ガラス壊して回った、という歌が成立したのは学校や教育というシステムが息苦しく感じられるくらい大きな存在だった昔の話で、それらが崩壊しつつある今でもそんなことをやっているのは単なる痛い奴ってことになります。墓石に向かってバーカバーカ言ってもしかたない、というやつですね。

振り返ってみると、ゼロ年代というのは、こういう変化が実は決定的に起こっちゃっていた10年間だったんだと思います。


その分裂が分かりやすく表現されているなと思ったのが、NPO法人フローレンスの代表で、「世界を変える社会起業家100人」に選ばれた駒崎弘樹氏の本の中にありました。

「日本社会の役に立ちたい」

なんてこった。自分がこんなことを思っていたなんて。
こんなことを僕が言い出したらみんなはなんと言うだろう。
「中学生日記」に出てくる学級委員みたいなやつが作文で書きそうな言葉だ。
ああ、どうしよう。僕は実は「中学生日記」だったんだ。
人間NHKだったんだ。


「社会を変える」を仕事にする 社会起業家という生き方「社会を変える」を仕事にする 社会起業家という生き方
著者:駒崎弘樹
販売元:英治出版
(2007-11-06)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る


中学生日記的であったり、NHK的であったり、という偽善的なことはものすごくかっこ悪いと思っていたはずなのに、気がついたらそれが一番かっこよいことになっていた。その戸惑いがストレートに出ている文章で、すごく共感します。わかるわかる。


思想家の東浩紀は、世の中がこんな風に変わってきているのに対応しきれいていない論壇をこんな風に嘆いています。

東:いまや日本の思想や批評は、一方はサブカル批評(快楽の批評)で、もう一方は経済論壇(カネの批評)、そのふたつにわかれてしまった。日本社会をどうつくっていくかとか、国家の理想はなにかとか、そんな話題はすべて幻想についての抽象論だからどうでもいい、という感じになっている。

父として考える (生活人新書)父として考える (生活人新書)
著者:東 浩紀
販売元:日本放送出版協会
(2010-07-10)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る


2010年代は、たぶん、「日本社会をどうつくっていくかとか、国家の理想はなにか」という議論が、必要に迫られてとか、背伸びしてとか、そういうことじゃなく、本当にかっこいい振る舞いとして行われるようになっていくと思う。偽善、かっこ悪い。ニヒリズム、かっこ悪い。諦観、かっこ悪い。そんな感じになるんじゃないかな。


最後に、岡田斗司夫つながりでエヴァについて。

90年代のエヴァンゲリオン、特に旧劇場版のダークな雰囲気と悪趣味な結末は、まさに90年代的で、だからこそ当時はものすごくストレートに響いた。あれこそ自分たちのための物語だと、本気で思った。

一方、それとは180度違う「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」は、なにかパロディや罪滅ぼしのつもりであんな風にポジティブしているわけではなく、まさに2010年代的気分を象徴するようなリアリティを追求しているんだと思います。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 EVANGELION:2.22 YOU CAN (NOT) ADVANCE.【通常版】 [Blu-ray]ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 EVANGELION:2.22 YOU CAN (NOT) ADVANCE.【通常版】 [Blu-ray]
出演:林原めぐみ
販売元:キングレコード
(2010-05-26)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る


というわけで最後にもう一度、岡田氏の遺言を引用します。

二十世紀後半、文学にしてもアニメにしても、あらゆる芸術が、芸術という建前を掲げて、散々楽しんだ。そろそろ本道に戻って、人格とか道徳というものを語ったほうがいいんじゃないかな


2010年代からは、かっこいいことが普通にかっこいいことになると思います。
偽善を恥じずに、堂々とかっこつけたことを発言したり行動しようと思う次第です。