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たかが挨拶ぐらい、できなくてもいいんじゃない? - ihayato.書店

「ちゃんと挨拶しろ」みたいな説教って、うっとおしく感じます。で、なぜ嫌なのかを考えてみました。

オレが正しいからおまえは従うべきだ、という上から目線

まず思い付くのは、「挨拶ができない人間は劣っている」という絶対的な価値基準を、押しつけようとしている行為である点。挨拶は「できた方がベター」ですが、別に、できなくても仕事はできますし、生きていけます。

答え甲斐のあるお題が出たので、今日は「挨拶」について書きます。

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海外旅行でホテルに滞在していると、エレベーターや廊下ですれ違う人たち(もちろん、外国人の方々)にハローハローと頻繁に挨拶されます。僕ら夫婦はそれほど社交性豊かなほうではないので、なかば戸惑いながら、こわばった笑顔でがんばってハローハロー返すわけですが、これについて奥さんに聞かれたことがあります。

「アメリカ人ってなんであんなに陽気なんだろうね?」

いかにアメリカ人といえども誰もが陽気というわけじゃないはず。にも関わらず、誰もが陽気に挨拶をしてくるのはなぜだろう? もっと合理的に説明がつけられる理由があるはずだ。そう考えてみたところ、挨拶は身の安全を確認する道具だ、ということに思い至りました。

旅行先のホテルで、自分とは異質な人間がニコリともせずうろうろしていたら、そりゃあ気持ちが悪いし恐ろしい。特に、僕のようなヒゲ面で色黒の東洋人がサングラスをかけてむすっとしていたら、あらぬ疑いをかけられてもしょうがないという気もする。いやそれは体重120キロもある白人がスキンヘッドでタトゥーしていても同じなのでお互い様ですけどね。

そういう状況だと、お互いに声を掛け合って、「私は安全な人間ですよ」「あなたはどんな人ですか?」というのを確認しあう必要があります。陽気だから楽しくて笑顔を振りまいているわけでもないし、人付き合いが苦手だからといって避けられるものでもないですよね。

しかし、同質な人間ばかりが集まるコミュニティにおいては、身の安全を確認する道具としての挨拶はそれほど重要ではない、ということが言えると思います。日本人客しか訪れない温泉旅館では目礼を交わすくらいがちょうどいいし、仲のいい友だち同士ならむしろ省略してもいい(馬鹿丁寧にやるとむしろ他人行儀になる)。

また、会社や部活のような組織では、挨拶は人の上下関係を視覚化・固定化させる道具としての側面も強め、それはそれで便利に使われます。
もしかすると、これを嫌悪する人もいるのかもしれませんが、これだって捨てたもんじゃないんですよ。儒教では「礼」という体系として知識化・ツール化されているものです。

礼(れい)とは、さまざまな行事のなかで規定されている動作や言行、服装や道具などの総称。春秋戦国時代、儒家によって観念的な意味が付与され、人間関係を円滑にすすめ社会秩序(儒家にとっては身分制階級秩序)を維持するための道徳的な規範をも意味するようになった。

礼 - Wikipedia

道具を使う側になるか、使われる側になるか、それは本人の心がけ次第。
つまり挨拶や礼というのは、社交性や愛想とはまったく関係ないんです。エクセルのスキルのようなものだからこそ、できることならうまく使えたほうがいいんです。

自分に、年の離れた弟や子供がいたら、どんなときに「挨拶ぐらいはしっかりしろ」と言うでしょうか?

・異質な人間を一度にたくさん目の前にしたとき(転校してすぐ、入社してすぐ、あるいは何かの発表会)
・長幼の序に厳しい人を相手にしたとき(「子供は大人を敬い、大人は子供を慈しむ」という文法でコミュニケーションする人にルール改訂を申し出ても労ばかり多くて得がない)

とかでしょうか。
付け加えるなら、「人様からお金や物をいただいたとき」ですかね。その場合にはやはり、挨拶やお礼は欠かせないでしょう。

でも、失礼も礼のうちですからね。
差し伸べられた手を無視して花束で殴りかかるのも、MacBookAirのトラックパッドをいじりつづけるも、それはそれでひとつの「ご挨拶」ではあります。


陋巷に在り〈1〉儒の巻 (新潮文庫)陋巷に在り〈1〉儒の巻 (新潮文庫) [文庫]
著者:酒見 賢一
出版:新潮社
(1996-03-28)
「礼」を駆使するサイキック孔子伝。