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ひさしぶりの更新。

去年の後半でしたか。本を一冊も読まなかった月というのがあったんです。どんな時でも、時間がないだなんてことはないわけで、つまりは読む気にならなかったというただそれだけのことなんだけども、自分にとっては貴重な体験ではありました。
本なんて、読まなきゃ読まないでいいし、それは音楽も映画も一緒。離着陸を考えない紙ヒコーキには車輪がないし、納豆のタレにはキャップがいらない。純粋な目的と、純粋に一体化して、あとは何も考えない。ひとつの幸せです。もし自分が使い捨ての道具ならば、だけど。

そうした時期にも終わりがあって、再び本を読みはじめたんだけど、ここのところは、すぐ紹介するのがはばらかれるタイプの本ばかり読んでます。実用書、ビジネス書、研究書。
うぶな分野の本に出会うと、まるでそれが世界の真実みたいに思えて興奮するんだけど、数年経って読み返すとロクなことがない。時の試練をくぐり抜ける本と出会うのも大変だし、まず真っ先に、自分自信がその試練に耐えられない。時勢に応じてまとう衣を変える哲学的カメレオンは、生存本能として肯定されたとしても、顧みるに醜い。

もちろんそんなことを言い出したら何も書けないわけで、何について書くのなら間違いを許せるか、その線引きしかない。それは自分にとって、文学であり音楽でありアートであり、いまは料理ということになります。時が経てば、あいかわらず自分はそのときどきの感性を裏切り続けるわけだけど、実用書やビジネス書や研究書のように、対象が裏切ることはない。

というわけで108冊目。『わたしの器 あなたの器』です。

こうした食器自慢の本は、世に溢れている。だから、この本だけを特別に推薦する理由はないっちゃないんだけど、いまの自分の心境にフィットする本として、記録に留めておきたくて書きました。

一昨年から真面目に料理するようになってはじめに手を出したのは、ちょっと気の利いた焼き物でした。波佐見焼の白山陶器、九谷焼の九谷青窯、小鹿田焼や小石川焼。伝統的でありながら、現代的。和風でありながら、洋風。ぶれのある一点ものでありながら、どちらかといえばマスプロダクト。定評があり、価格的にも手が届きやすい。いま思えば、脱100円ショップ、脱無印にちょうどいい入門編でした。
でもそこをくぐり抜けると、次はアンティークやブロカント、そして現代の作家物の世界が待っています。そこに足を踏み入れてみたいま、こうした本がたくさん出版されている理由や、それを自慢したくなる理由がわかってきました。

その時に作っている料理に合う器を、その時にしか出会えないタイミングで買う。それを繰り返していると人にとって、器を振り返ることは人生を振り返ることに他ならないわけで、いわば人生のポートフォリオ、ディスコグラフィー、あるいは履歴書であるわけです。売れなくたっていい、自費出版でもこんな本を出したいという人は多いはず。

値段の高低は関係なく、いかにして出会い、いかにして食べたか、それだけが大事。いつか懐かしく思うこともあるだろうから、恥を知りつつ最近買った食器を並べます。


笠間焼の共同販売所で買ったもの。和風のような、ギリシャの海底からサルベージされたような柄がお気に入り。



実家の納戸から掘り出したもの。朱色の縁の取り皿には、高台に実家市内の商店の名前が書いてあり、粗品として配られたものであることがわかるのですが、そうしたところも愛でポイント。



明治大正の食器を安く扱う吉祥寺のPukuPukuで買ったもの。ちょうどいい深さがあって、汁っけのある料理の取り皿にちょうどいい。おでんとか。



海外輸出用に作られたお皿。元の持ち主は宣教師。西荻で1枚300円で買ったもの。パンやフルーツにちょうどいい。


振り返ったら、ほとんど青い皿ばっかりですね。

ではまた109冊目で!