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さて、どこから書こうかな。

僕が定刻に居酒屋に着くと、先に来て待っていた友人がこう切り出しました。「佐々木さん、人って変われると思いますか?」と、いきなりです。

その友人には個人的な事情があって、それはあとから聞かされることになるんだけど、ここでは何も書きません。だから、これを読んでくれているみなさんも、この瞬間の僕と同じように、ぽんと机上に乗せられた大命題と純粋に差し向かいになって考えてみてください。人は変われるのか?

僕は、ちょっと考えて、言葉を選んだつもりで、こう答えました。

人は、変わらない思います。でも、自分は変わってきました

文字面だけ追うならば、一行ですでに矛盾してしまっています。おかしな言い回しだよなと自分でも思うし、もちろん、友人がそれで膝を打ってくれるということもありませんでした。でもそれは、その場しのぎのでまかせなんかじゃなく、確かなことだと思って言ったものです。

すぐに最初の一杯が出てきてたのでそこから先は友人の相談を聞く番になり、やがてふたりとも酔っ払い、その答えについてさらに突っ込んで語り合う機会はありませんでした。でも、いまあらためて同じ答えを言い換えてみるならば、こうします。

他者に変化を強いることはできない。でも、自分を変えることはできる

もう一言だけ加えるならこう。

与えられたものは交換不可能だけど、それをどう使うかは選択できる

僕はこのことに強い確信をもっているんだけど、すでに書いているように、それを語ったところで他者に変化を強いることはできないと思っているので、友人の話をさえぎってまでくどくどとそんな補足をしようとは思わなかったんです。
その友人にしたって、自分が変わりたくて聞いたのか、誰かに変わってもらいたくて聞いたのか、いいやその実なにも変わりゃしないんだってことを確かめたくて聞いたのかわからなかったし、そのときは深追いするような話じゃないと思ったんです。

でもそれからの一週間、「人って変われると思いますか?」という問いが自分の中に沈殿して、澱のように漂い続けました。自分が答えた「人は、変わらないと思います。でも、自分は変わってきました」ってどういうことなんだっけ。なんでそのときの自分はそう答えたんだっけ、と。僕はそのボトルを飲み干して底にある澱を取り除かずにはいられなかった、というわけです。

だからこの先の文章は、そのときの問いによりよく答えるための誰に宛てたわけでもない長いモノローグです。ブログでなら、他者に変化を強いることなく思っていることが自然に書けるかもしれない、そう思って。


1997年9月17日のナバーナ


このとき僕は高校三年生で、その日のことは今でもよく覚えています。

朝、目がさめると、悟りを得ていました。

人間とは何か、人生とは何か、生きているとはなんと素晴らしいことか、ということが、一切の思考的プロセス抜きに、突然、すべてわかったんです。NHKで見たドキュメントによれば、アンドリュー・ワイルズがフェルマーの最終定理を解いたときがそんな感じだったらしいですよ。エレガント、エレガント言ってました。よく知りませんけど。

で、もちろんそれは、すでに過去の誰かが発見済みの真理ではあったんだろうけど(これはその後の20年の読書人生の中で何度も確かめられました)、そのときの僕にとっては、自分に手による大発見のように思えたし、瞬間的に真理に到達できたという「悟り」としかいいようのない感動体験に、全身が痺れるような思いがして、文字通り、そのときから世界が変わって見えました。

その直後、自分がやったのは、漫画を描くとことでした。

その真理について、自分ではよくわかっているんだけど、誰かに説明するには言葉にしなければならないわけですからね。でも、冷静になって論理的な文章を書くには興奮しすぎていたので、勢いにまかせて、そのときまで一度も描いたこともない漫画という手法を使って、そのとき悟った真理を言葉に移し替えていこうとしたわけです。

そのときの作品に書かれてある日付が、1997年9月17日。今回、この記事を書くにあたって久しぶりにその漫画を引っ張り出してきたので確かです。よくまあ今まで大事に保管してたなと我ながら思いますが、それだけ忘れがたい、特別な出来事だったんです。

というわけで、これがそのとき描いたものの一部です。どうぞご笑覧ください。


この漫画、タイトルは『死んで飛ぶ鳥』といいますが、ここで何を言っているか、説明します。

まず冒頭で、人には純粋なオリジナリティや個性なんてものは存在しないんだと、17歳の僕が主張します。自分という存在は、他者との関わりのなかに生まれる結び目がかろうじて作っているあやふやな輪郭でしかない、という話です。

しかしそれは、自分という存在の限界ではなく、むしろ無限の可能性を示しているのだと、個にして全なのだと、宇宙なのだと、17歳の僕は強く強く主張します。それがちょうど上に掲載したページで、このあたりもう、気持ちよくなっちゃってきてますね。

はい。それでつまり、自分という存在は他者との関わりなかにこそあるのだから、自分を変えるには、他者との関わりを変えるしかない、という方向へ話が進んでいきます。
他者そのものを変えてしまうことはできません。他者を(たとえば家族を)選び直すことも困難で、普通の手段ではなかなかできません。当然ですね。だから変えるべきなのは、他者との関わりです。

その方法として17歳の僕は「表現し、還元され、成長する」というマントラを繰り返し唱えます。

他者との関わりを変えるためには、自分を表現するしかない。自分がどうありたいのか、勇気をもってさらけだせよと。それが実行されれば、関わりに変化が生まれ、自分に跳ね返ってくる。それが還元。さすれば汝成長せん、というわけです。つまり自分を変えられるってこと。

その「表現し、還元され、成長する」というサイクルによって、人は表現し続ける限り望んだ自分に変わることができるのだという人間讃歌を歌い上げていくと、そういう漫画です。いやー、怖いもの知らずでした。

このときの気分は、今でも本当によくおぼえています。
自分は何者でもないが、同時に、あらゆる他者に影響され得るという意味で、過去とも辺境とも同時に接続された全き者なんだという相互依存的な世界観を理解したときの希望たるや、最高の気分でした。
同時に、その可能性を引き出すために必要なのは、表現という働きかけをする勇気ひとつだというわけです。表現には、才能も財産も関係ないわけで、誰もが等しく実行できる具体的な手段です。これもまた希望ですよね。

だから人生って楽しいぜ、人間って素晴らしいぜ、という大発見を伝えたくて描き終えたばかりの漫画を読ませに自転車漕ぎ漕ぎ同級生の家を訪ねました。おそらく、僕のテンションが異様に高かったろうことは想像に難くないので、そのときに理解してもらえるように伝えられたとは思いませんが、まあ伝わっても伝わってなくても、そのときのひとりとは今でもつきあいが続く親友となり、また別のもうひとりとは、だいぶあとになって一緒に暮らすようになりました。妻です。

まあそのあたりの話はちょっと置いておくとして、こうした考え方の元になった世界観について、自信を深めた文献がありました。3世紀に編まれた経典『華厳経』で、そこに書かれてあるという「インドラの網」というのがまさに「他者との関わりのなかに生まれる結び目がかろうじて作っているあやふやな輪郭」とか「個にして全」を表現したものでした。
私がその話を知ったのは天沢退二郎さんによる宮沢賢治研究の本のどれかだったと思うのですが、それに該当する部分を見つけることができなかったので、それとは別の方、野村哲也さんの本から一節を引かせていただきます。


バルデスの話を聞きながら,僕は宮沢賢治の「インドラの網」という童話を思い出していた.華厳経に説かれるインドラの網は,インドの勇猛な神「帝釈天」の宮殿にかけられた,巨大な球状の網のこと.その結び目には,美しい水晶の宝珠が縫い込まれ,全体が宇宙そのものを表現しているとされる.また宝珠の一つひとつが他の一切の宝珠を映し込んでいることから,ひとつの宝珠に宇宙のすべてが収まっている,というようにも考える.

カラー版・世界の四大花園を行く―砂漠が生み出す奇跡』(野村哲也)

ちなみに、この一節を探すにあたり、『宮沢賢治と早田文蔵:華厳経の「インドラの網」と高次元分類ネットワークとの関係』という記事を参照させていただきました。我が身にのみひきつけて物申す勝手な紹介の仕方で恐縮ですが、私の戯言を補強してくれる内容でしたので、ここに紹介させていただきます。

インドラの網のことを知ったのは、この漫画を描いた数年後だったと思いますが、1800年以上も前に同じようなことを考えた人間と通じ合えた気がしてめちゃくちゃ興奮しましたね。君とはいい友達になれそうだ! とかなんとか思ったような気がします。

このときに授かった霊感は、長い間にわたって僕を励ましてくれました。それは冒頭に書いた「他者に変化を強いることはできない。でも、自分を変えることはできる」や「与えられたものは交換不可能だけど、それをどう使うかは選択できる」というスタンスにも地続きになっていて、実に20年近く経ってもまだ有効期限が切れていない。むしろまだまだいけるんじゃないかという気にすらなっています。

さて、すでにだいぶ長くなってしまいました。ここで書き終えてしまっても誰が困るわけでもないのですが、もともとがモノローグと断っているブログですから、まだ少しだけ続けます。あのときに自分は変わったなと思った瞬間が他にもあって、それにまつわる感動を書きつけておきたい気分なので。

(つづく)