カテゴリ:
この記事は、2018年4月7日に下北沢のB&Bで開催された「僕らはいかにして、未来の降霊をなしとげるか 『僕らのネクロマンシー』(NUMABOOKS)刊行記念」の内容の一部を書き起こしたものです。



佐々木大輔 @sasakill … 『僕らのネクロマンシー』著者/スマートニュース株式会社/元・LINE株式会社執行役員
ドミニク・チェン @dominickchen … 早稲田大学文学学術院・表象メディア論系准教授/NPOコモンスフィア理事/株式会社ディヴィデュアル共同創業者
遠藤拓己(司会) @tkmendo … スマートニュース株式会社/株式会社ディヴィデュアル代表取締役



僕たちがテクノロジーと正常な関係を結ぶために



――まず出だしとして、この本を出された経緯やお気持ちを佐々木さんに伺いたいと思います。

佐々木大輔(以下、佐々木) 本当に不親切な本で申し訳ないと思ってるんです。どういう本なのかほとんど情報がないんですよね。帯もないし、表紙にも背にも裏表紙にも文字が一切載っていないという。その代わりにいろいろ語りたい気持ちはあるんですが、どうも簡潔に言えなくて。だからこそわざわざ1年3カ月もかけてこんなもの書いてたわけなんで、うまく言葉が出てこないんです。

――では、たぶんドミニクがサマライズの天才なんで、上手いこと言ってくれると思います。

ドミニク・チェン(以下、ドミニク) いえいえ、俯瞰してうまいこと話すというよりは、この小説を読んで感じたことをウォークスルーして話していければと思います。とにかく、この本を読んでいて「わかる!わかる!」という感じが止まらなかったですね。(自分の本から飛び出た)このたくさんの付箋はやらせじゃくて本当に貼ってあるものです。読んでいくなかで「めちゃわかる、そこ」という箇所がたくさんあって。しかもITと降霊術が一緒になっていることがポイントで、こんな面白い話書いてる人、他に知らないですよ。
 でも同時に、最近僕のまわりだけかも知れないですが、言葉にできないものというか、「神」的な何かにどハマりしてる人たちが増えている実感があります。例えば、市原えつこさんというアーティストがいまして、現代のデジタルシャーマンを名乗ってる方がいるんですね。彼女は早稲田大学を卒業した後にYahoo! Japanに入って、ユーザーインターフェイスのデザインチームにいて、その間にソフトバンクのペッパーのなかに死んだ人の魂を吹き込むというような作品(『デジタル・シャーマン・プロジェクト』)を作っているんですね。
 あとは僕より年上で言うと、安田登さんという能楽師の先生がいまして、彼は『イナンナの冥界下り』という世界最古の神話を能舞台的に表現するということをもう10年以上やっていいます。バーチャルリアリティなどの現代のテクノロジーと、元々人間が古来からずっとやってきた霊と交わるという、この二つのテーマにいろんな人が反応しています。その流れの最新作が、佐々木さんのこの本だなと思っていて。
 さっき「わかる、わかる」と言ったのは、やっぱり佐々木さんはITのことを熟知しているプロフェッショナルなんですよね。そういう人じゃないと書けない情報技術のリアリティみたいなものがあるわけですよ。でも、なかなかこれ難しくて。僕もITに関する解説書みたいなことをいろいろ書いたりしてるんですけど、分かりやすくしようとするとその分リアリティが薄くなっちゃう部分がある。だけどこれ小説なんで、一切遠慮してない。分からない人はちょっと置いていかれる部分がもしかしたら少しあるかもしれないけども、それが物語というものにラッピングされていて、全てを理解しなくてもいいから、そういうリアリティがコンピューターの世界の中にあるんだということが、ひしひしと伝わってくる。

佐々木 これを書き始めたのは今からすると2年前なんですけど、今年起こってることをだいぶ言い当てられてるなと思って。GoogleがAutoML Visionという機械学習のプラットフォームの提供を開始したり、Facebookの個人情報流出が広告に悪用された事件とか。そういうことが絶対に起こるなとは思っていて、それを物語のかたちでちゃんと分かりやすく書きたいなと思ったので、間違ってなくて良かったなと。いや、良かったと言っちゃいけない話もありますが。

ドミニク 確かにそういう側面もあって、すごくドキッとさせられるんですよね。この小説の内容も面白いんですけど、その文脈として佐々木さんみたいなLINEにいて今スマートニュースにいる人が、小説でしか書けないリアリティを、現役で書いているということの意味というのは、僕はすごく応援された気がしました。僕がいろんな本を書いて伝えたかったこととか、勝手にこのなかで再発見させていただいたというか。こういう価値の話ができるできるような環境が整って初めて、人工知能に代表されるテクノロジーと僕たちという存在が、正常な関係を結べるようになると思うんですよね。



自分をバラバラにして、そのかけらで怪物を作る



――まだ読まれていない方が多いと思うので概略を。この話を、今ドミニクがデジタルの様々な話が入っている小説だと紹介しました。それだけ聞くとすごいSFっぽいものをイメージされると思うんですけど、ある種すごく土着的な内容なんです。佐々木さん自身が遠野の出身で、実はこの話は『遠野物語』への応答でもあるんです。最初に読んだとき土の香りというか、そもそも主人公があるきっかけで遠野に帰り、農夫をするんですね。いわゆるSFというのと違って、すごく土の匂いのする、故郷を感じる。佐々木さん自身が遠野愛を深くお持ちで。

ドミニク この作品はSFという紹介をすると、ちょっと違うなという感じがしますね。あまりこういう野暮ったい質問はしたくないんですけれども、少し自伝的な感じもしたのですが、いかがですか?今までの佐々木さんというよりは、未来にありえたかもしれない佐々木さんみたいなものを投影しながら書いているところもあり、もちろんそうじゃないところでほとんど構成されているけど、だからこそ自分を取り戻すみたいなことが、これを書きながらできたのかなってちょっと想像したんですけど。

佐々木 でも本当にあったことは書いてないんですよね。だから不思議で。高橋源一郎さんの著書に『デビュー作を書くための超「小説」教室』というのがあるんですが、それにいいことが書いてあって。自分をバラバラにして、そのバラバラになったかけらで怪物を作ってしまうと。小説を書くってのはそういうことなんだと。それを分身と言わないんですよね、怪物と表現してました。自分の破片を繋ぎ合わせて怪物を作ると。そうして恐るべきものができたときには、それは良いものなんだということなんですけど。だからは、ちょうど頑張って怪物を作りましたという感じ。破片は全部僕のものだけど、できたものは実際の僕じゃない。不思議な感じですよね。

ドミニク 途中からキャラが走るというか、自律走行するみたいな感じで物語の後半とかはそういうふうに出来上がっていったんですか。結構最初の方でプロットを考えて、そこにはめ込んでいった?

佐々木 プロットはなくて、全部その場の思いつきで書いているんです。でもそれもちょっと語弊がありますね。いわゆる小説とか脚本を書くためのプロットというのはないんですけれど、 僕は『遠野物語』を通じて民話とか神話の研究にすごく興味があったので、昔話の類型というのはよく知っていたんです。ウラジミール・プロップの『昔話の構造31の機能分類』というのがあるんですけど、それは頭に入っていて使いました。行きて帰りし物語みたいな。主人公は何かを失って元ある所からどこか遠いところに行って、それを取り戻して戻ってくる。ただ戻ってきて全き者になった自分は過去の自分ではない、みたいな。シンプルに言うとそういうような話なんですけど、そこは外さないように意識してました。

ドミニク それがアーキタイプになるわけですね。

佐々木 そうです。そのアーキタイプは常に頭に置いて書きました。

ドミニク そう言われてみると、「祖母の葬儀が終わり〜」という冒頭の一文から、後半でデジタル世界でのおばあさんがゴニョゴニョなって、そこで主人公が自分の道を見つけるみたいなね、そこから一気にクライマックスがバァーっとくるところまで首尾一貫してるんですよね。このおばあさんの死というものに向き合うところから始まり、最後は同じおばあさんの幻影の死によって、ようやく自分を取り戻す。そこを全然プロットしてないっていうのは驚きです。

佐々木 何本も小説を書いてきたわけじゃないですけど、そこが一番楽しいときですよね。何の予定も立てないで即興で書いているのに、後半の方は収まるべきものが収まる場所に収まっていく。本当楽しいというか、そこに行くまでが結構苦しいんですけど、それが楽しくて書いている感じですね。




グレイという過去の妖怪、トランプという現代の妖怪



佐々木 この小説のなかに●●●や●●●●や●●●●●のような人が出てきたのってお気付きですか? 結構、気付かれないように書いたんですけど。

ドミニク 言っちゃっていいんですか(笑)

佐々木 つまりなんの話かというと、みなさんグレイという宇宙人はご存知ですよね。アーモンド型の瞳をしていて、グレーの肌で、頭が大きくて体が小っちゃくて、80年代から90年代にテレビなんかによく出てきていたやつです。それが小説のなかで、「あいつ今どこで何をしているんだろう、最近見かけないよね」って話が出てくるんです。すると主人公が「あいつは人気のなくなった妖怪なんだよ」って説明をするんですね。その当時すごく怖がられていた。でも今は誰も怖くない。そういう落ちぶれた妖怪。あの当時は、コンピューターは普及しかけていたけどインターネットはまだ普及していなかった。そして詰め込み教育なんかが問題になるような時代だった。暗記ものの勉強が重要視されて、それについてこれないと受験勉強から振り落とされて、ちゃんとした大人になれないよ、みたいなプレッシャーがあった。そういう時代に、未来の人類の姿として想像されていたのは、身体が退化して頭ばかり大きくなった、ヒョロっちくて青白い肌をした人間なんですね。つまり宇宙人グレイというのは、その延長としてある。未来の人類よりもさらに進んだテクノロジーを持った宇宙人はああいう見た目をしていると。つまり不安や恐怖心が、グレイというものをウケさせた。だから妖怪なんだ。と、そういう話を主人公はするんです。すると「じゃあグレイに人気がなくなったのは分かったと。じゃあ現代の妖怪ってなんなんだ?」みたいな話に広がる。そして、そこから先はきわどい冗談になったのでみんなで笑って解散した、みたいなエピソードがあるんですけど、それっていうのが●●●や●●●●や●●●●●のような人のことです。でもわかりやすいのはトランプ大統領ですかね。

ドミニク 現代の妖怪(笑)

佐々木 自分の頭の中に記憶や思考力を保っておく必要がない。外にどんどん預ければ良い。そういう考えの最果てというか。暗記するよりググればいい、なんてことを言いますが、事態はもうちょっと進んでいて、ソーシャルネットワークでつながっている先の人達に考えさせる。自分がそのことに詳しくなくても、無知をさらけ出すことで誰かが叩いたり燃やしたりしてくれる。でもそのことを通じて成長したり、結果的に事態がうまく進んだりする。つまり記憶を外部化するだけじゃなくて、思考さえも外部化している状態というのがあって、それは一見、あまりよい状態に見えなかったりする。でも実は、現状にもっとも最適化された状態でもある。そういう人たちというのは、グレイとの対比で言うと、頭は小さくていいし、肌は小麦色に焼けている方がいいし、UFOの中よりもビーチにいた方がいい。

ドミニク それね、僕、付箋貼ってあります。「僕は想像した。小麦色に焼けた健康的な身体に空っぽの脳みそを乗っけた存在が、何千万人という知性に同時に接続されて、その注目とリソースを独占して頂点に君臨している様を。そこに不安と恐怖はあるか。あるような気がする。ならばそれは妖怪ではないか」これ読んだとき、TwitterなどのSNSでつながってることかなぁと思ったけど、具体的になんのことかわからなかったんですが、そういうことか。

佐々木 名前を出すときわどい冗談になっちゃいますが、そういう人ってたくさん思いつきますよね。

ドミニク いますよね。それは現代社会批評としてもよくわかります。つまり、僕たちはネットで常に脊髄反射をしているわけですよね。だから、この物語は、インターネットが見果てた夢をもう一度、別の形で見るための書でもあって。メインストリームでのIT産業というのは今、改めて引いて見てみると、やっぱり過剰さみたいなものが根底にあって。特にアメリカではそのバックラッシュがすごく可視化されてきてるけど、日本はまだそこまで議論がされていない。フィルターバブルやエコーチェンバーとか、つまりみんな意見が分かれてしまって、インターネットって本当はコミュニケーションを広く深くしていくためのものだったはずが、なんか蓋開けてみたら、みんなインスタ映えすることとかわかりやすいことにした興味を持っていないように見えてしまう状態になっていて、果たしてそれってどうなの? ということをみんなどこかで思っているんだけれど、それを話すボキャブラリーというのがなかなか共有できない。社会的に構築しづらいというところがあって。そういう意味でこの本を読んで勇気づけられるもう一つの側面というのは、現状肯定でも悲観論でもない中道の道を想像する道筋が、これを読んでいるとなんとなく見えてくる。

佐々木 嬉しいこと言いますね。

ドミニク いや、本当にそうだと思いますよ。



脱中央集権的な心、分散する心



佐々木 ドミニクさんに初めてお会いした後に、2015年に書かれた 『電脳のレリギオ』を読んだんですけど、なんか折り目だらけになってしまって。今日はそれに適したところを抜いてきました。フィルターバブルとかエコーチェンバーのような情報技術の弊害によって、自分の興味あることしか知らない、自分の興味の殻を出ていけないという、そういうマイナス面がすごく目立ってきていますよね。その状況のなかでどうするか 、二つの選択肢が考えられるでしょうと書いてあって。一つ目は、情報技術から遠ざかって生きる。二つ目は、情報技術の発展を追いかけ続ける。でもそれについて、今世の中で好まれている選択肢ってどちらかというとデタッチする方。デジタルデトックスしましょうとか、ソーシャルデトックスしましょうとか、そこから離れること。「Delete Facebook」って最も分かりやすいメッセージだと思うんですけれど、その通りなんじゃないか、いやでもそうじゃないんじゃないか、という煩悶をこの本を通じて書いているんですね。それは主人公の置かれている状況でそれを書いているんです。主人公は一旦田舎に帰って、おばあちゃんの葬式に出て、 東京での忙しいを仕事嫌だなあと思って辞めちゃう。その時にいろんな仕事関係とか自分の持っているネットワーク機器をインターネットから非接続にしちゃうと。スタンドアローンにしちゃう。デタッチしちゃうというところからスタートするんだけども、最後は最もインターネット的なつながり、過剰なつながりの中に再び戻って行くわけですね、自ら選択して。なのでまさにおっしゃっていたように、どっちでもなく、でも情報技術を信じたさらに向こう側の世界に行こうとする。これってまだ誰も見たことのない世界だと思うんですね。そこに行こうとしているところで言葉を失って終わるんです。なので今おっしゃってもらった、現状肯定でも悲観論でもないというのを読み取っていただいたのはすごく嬉しかったです。

ドミニク 降霊術とかネクロマンシーとかシャーマンとか冥界下りとか、さっき冒頭で言ったようなこと、霊的なものへの関心が一方で高まっているという状態というのは、そういうことを考えている人たち、アーティストであったりデザイナーであったり研究者であったりいろんな人がそこに含まれているんだけれども、僕も含めてそういう人たちは、まだ言語化されていないけれど、上手く共有できる新しい道の価値みたいなものを探そうとしているのだと思うんですよね。そこでデジタルデトックスとかコンピューターを捨てて山にこもろうとか、逆にテクノロジーを信じよ! みたいなテクノロジー礼賛宗教みたいなのが出てくる。でもいわゆる原理主義なんですよね、どっちも。原理主義にいかに走らずに、自分たちだけでなく社会として見たい夢をどう実現するかということが大事。こういうふうに言葉にしてみると非常に普通なんだけれども、テクノロジーと霊性に興味のある人たちがやってることは、メインストリームのあり方からするとちょっと変だったり怪しかったり見えるだけなのかなと。
 オカルトに陥らずに、いかにこの霊的なものについて語るかということに僕はずっと興味があって。佐々木さんが紹介してくれた本のタイトルになっている「レリギオ」というのは、実はラテン語の言葉で「レリジオン」つまり「宗教」の言葉の語源なんですね。これはすごく面白くて、僕はフランスの学校でずっと育っていたんですけれども、フランスの学校は今はね、フランス文科省の制度が変わって必修じゃなくなったんだけど、僕の時代はラテン語が必須だったんですね。小学3年生とかでね。そうするとラテン語源の言葉の意味が字面だけ見るとだいたい分かったり推測できたりするようになるんです。ラテン語はパーツでできてて、レリギオ(religio)というのはつまり再び「リギオ」する、つなげるという意味なんですね。「関節」って英語で「リガチャー」というんですけど、どれも同じ語源。伊藤穰一さんに、僕と遠藤さんの会社で作っていた「リグレト」というサービスを見せたら「Religion 2.0だね」という話になって、実際にたくさんのユーザーの心の表れに運営する過程で触れた経験から、改めてITを作ることと宗教性について考えていたら、レリギオという言葉と向き合ううちに精神的な構成要素をつなげる関節のイメージが生まれたんですね。自分の心がいろんな要素によって構成されていて、それを繋ぎ止める接着剤みたいなものがreligion、レリギオ。それを僕たちは日本語だとたまたま「宗教」と呼んでいるものだと思っているんです。
 でもそれって、宗教という日本語の言葉にしちゃった途端、宗派的なものにイメージが吸い寄せられちゃうじゃないですか。でもいわゆる仏教でも神道でもキリスト教でもないものを信じて、それを信じてるからこそ、生きていけるっていうことは誰にもでもあることですよね。それはサブカルでもいいし、好きなアニメでもいいし、自分の子どもを育てることでもなんでもいいと思うんですよね。そこで宗教と科学というものをバトルさせないで、いかにそこをつなげていくかということがやりたい、と考えてきたんですよね。
 それと、最近のビットコインとブロックチェーンみたいな話でまた出てきている「脱中央集権化」という言葉もありましたけど、実はこれまでの宗教というのは中央集権化していた。それは権力の構造がそういうことをアフォードしてきたということなんだけれども、 そうじゃなくて、自律分散型の宗教は作れないのか。リグレトでいえば、ユーザーはあるときは、自分が悩みを告白する弱者の側にいて、また別のときには他のユーザーの悩みを聞いてあげる、キリスト教でいうところの司祭のポジションになる。二項対立じゃなくて、受け手と作り手みたいなものの間のプロシューマーみたいな、トフラーじゃないけど、そういう二項対立じゃなくて二項同体。同時にどっちでもあるということですね。受ける方でも作る方でもあると。
 そういうRead OnlyでもWrite OnlyでもないRead/Writeであることがインターネットによって可能になった。その一つのインスタンスとしてリグレトなんかもあるんじゃないか気付かされた。その時に、自分は別に宗教的なことにコミットしようとか思ってもいなかったし、今でも狭義の宗教という意味では何かにコミットしようということは全然ないんだけれども、期せずして自分たちの作ったサービスを通して、それに触れている数百万人の人たちの心の中に大きな変容をもたらすような場所を作ってしまったんだという、ある種の慄きみたいなものを感じたんですよね。

佐々木 僕がlivedoorやLINEで担当してきたのも、たくさんのユーザーがいろんなことを言ったり書いたりするというサービスだったんですが、そこでも同じようなことを感じました。中央集権的なものが分散的なものになるというのはインターネットの一番特徴的なことだと思うんですけども、歴史上もそういうことがいっぱい起ってきた。地球が宇宙の中心だと思っていたけれども、実は周縁にすぎなかった。あるいは、人間は神に造られた特別な存在だと思っていたら、ただのホモサピエンスという種で、生物のなかのワンオブゼムに過ぎなかった。あるいは、精神は人間の主人だと思っていたけれども、無意識というものが発見されて、そうでもないということがわかった。中心だと思っていたのに実は辺境だった、ワンオブゼムにしか過ぎなかったということがいっぱいわかってきたわけですよね。その最新系が、情報技術やメディアによって起こっていると。
 たとえば今は通貨でさえも中央集権的ではないという方法が話題になっていますが、そのなかでひとつだけ、みんながまだ自分のものだと思っているものがあるんですよね。心です。人間の心だけは、人間のものだろう、自分だけのものだろうとみんなまだ思っている。でも僕はそうじゃないと思っている。ネットにいろんな人がいろんなことを書き込むサービスをやってきた経験の中で、心さえも自分のものではないんだという実感がある。つまり脱中央集権的な、分散的な話の最新系がいま心という分野に及んでいると思っていて。インターネット的なテクノロジーやAIの発展によって、いろんな人が考えていることがより自由に行き来したときに、自分の考えというものは自分でコントロールできないそういうものになっていくと。でもそれは恐れるべきものじゃなくて、そうなっていくんだからどういうふうにアジャストしていこうか、みたいなところまで書けたらいいなと思って、主人公はそれを言語化できずにいるところで終わるんですよね。

ドミニク だから続編が出るのかなと。

――そうですよね。

ドミニク 「僕これ続編が読みたいです」って佐々木さんにインスタントメッセージを送ったら、「今ぜんぜん別の話を考えてます……」と言われて、オイッ! と思ったんですけど(笑)。

佐々木 すいません(笑)。

ドミニク 心の話はめちゃくちゃ面白くて、安田登さんとここ一年半くらいよくお話をさせていただくんですけど、彼はシンギュラリティというのは実は過去に起こっているという話をするんです。例えば中国において「心」という漢字が生まれてきたのは、漢字そのものが発明されてから300年経ってからで、そこでようやく「心」という字が出てきたと。だから紀元前1300年頃に殷周時代を経て甲骨文字象形文字みたいなものから金文に進化して、そこで今の漢字につながる字体がワーっと作られたんだけど、心という字ができるのが紀元前1000年くらいなんですね。だから「心」という概念が生まれたのも300年のスパンがあるといって、安田さんは孔子の『論語』も読み解きながら、実は心という概念は当時めちゃくちゃ新しかったと。「え? 心?!」「なんか、イケてない?」とか、「心って、イケてるよね」みたいな感じだったんじゃないか(笑)。そういう目で見ると、孔子の『論語』は心というものを、新しく生まれた心や霊性といったものをどう捉えるかということに肉迫するためのエクスペリメンタルな書なんですよね。
 イナンナというシュメールの古代神話を追っていっても、心の把握の仕方が変わっていったということも面白い。シュメールでは当時、心の居場所を表す象形文字というのが女性器とか男性器を表す象形文字なんですよね。だから心は性器の中にあると思われていた。それがギリシャ時代になってからキリスト教の時代になってくると、お腹の話になってくるんですね。現代でもgut-feelingと言いますが、そういう胃腸の中の渦巻く感情みたいな表現が出てくる。その後、心臓のあたりを示すハートマークみたいなものが出てきて、さっき佐々木さんが言っていたように今だと脳主義みたいなものがあって全部ここ(頭)でしょうと。僕の娘にね、まだ3歳ぐらいのときに「ねぇ、心ってどこにあると思う?」て言ったら、速攻で頭を指していて。

佐々木 3歳でも頭を指すんですか?

ドミニク すごいなと思って。

佐々木 そうなんですね、面白い。

ドミニク ハートとか言いそうじゃないですか。だけど真っ先に頭指して。でも、もしかしたら、それが段々上がってきて、頭よりさらに上の、というか外の、そろそろ空中というか、クラウドを指すかもしれない(笑)

佐々木 この辺(頭の上の空間を指差して)に心がある、みたいなことになるかも知れない。

ドミニク 自分の心は北海道のデータセンターの方にある、とか思ったりして(笑)。だから人間って、古代から脈々とバージョンアップして生きてきたわけだし、さらにいうとその安田さんの話を解釈していてすごく面白いのは、言葉っていうのもテクノロジーだったということなんですね。当たり前ですよね。記憶を外部化するというときに、まず言葉を喋れてそれを文字として記録にできたのが最初だったわけで。それがなければ、農業というのは発達しなくて、都市も生まれなくて、サプライチェーンも生まれなくて、こういう眼の前のMacBookProとかも作れなかったわけだから。MacBookProを構成するテクノロジーと自然言語というものは、乱暴だと言われるかもしれないけど、僕は一直線に見えるんですよね。じゃあテクノロジーを捨てるというのは、本気でやるんだったら言語を捨てるっていうことなんですよね。それをそこまで迫力のあることを行ったり実際しているテクノロジー否定派という人は……まぁいるか、一部カルト集団とかね。シベリアの奥地とかの(笑)。

佐々木 だから今マーク・ザッカーバーグとテスラのイーロン・マスクが「お前の方がAIのことわかっていない」「お前の方がわかっていない」 なんて喧嘩してるじゃないですか。つまり情報技術の進歩というのは、核と同じくらい危険なものだと。それが人類にどんな悪影響を及ぼすかわかっていないテクノロジーなんだと。楽観的すぎるぞというふうに、イーロン・マスクが攻撃をする。すると、お前こそ火星ビジネスに投資を集めたいだけで人工知能をただ貶めているだけだろうみたいな、お前の方が分かっていないわ、みたいなことをマーク・ザッカーバーグが言い返すと。そういう喧嘩をやってると思ってるんですけど、そうだとするとどっちもしょっぱい話だと思っていて、人間の心がどうなるかみたいな話にはなっていない。お互いのポジショントークからは逃れられないわけですよね。でも、そうじゃない心の話の方が僕としては興味がある。



デモンストレーションとは、脱妖怪化すること



ドミニク 言葉の境というのは、実は今日の降霊術という話だったり、遠野物語で出てくる妖怪というものとも密接につながっていて、さっき聞きながら思い出して思い出してメモってたんですけど「デモンストレーション」という言葉があるじゃないですか。日本だとデモと言うと国会デモみたいなものを想像されると思うんですけど、フランスとか英語でデモンストレートってまず「証明する」ということなんですね。だから数学の授業で証明を書くというのはデモンストレーションというふうに言うんですよ。これも実は語源的に見ると否定形の言葉で非定型とかデ・モンストレートということなんですよね。僕、高校生のときにこのことに気付いて、当時の哲学の先生に「これどういうことなんですか?」と聞いたら、「よくぞ気付いたぞ」と言われて。「これはモンスターをモンスターじゃなくする言葉なんだよ」と。脱妖怪化ということなんですね。デモンストレーション。

佐々木 いいな、それ。いただこう。

ドミニク 確かに分かりますよね。数式の合理とか定義みたいなものを結果だけ知らされると魔法のように思えてしまうけど、証明するってそれを脱・神秘化するということ。論理的にアルゴリズムを解くということですよね。 だからデモンストレートという名の脱妖怪化をし続けて、僕たちは今の社会に立ってきているわけですよね。だからいろんな魔法を魔法じゃなくしてきたと。 ある不思議な現象を指して、「それは物理法則なんだ」と示す。なんだけれども、じゃあそのモンスターたち、まだデモンストレートされていない精霊や妖怪というのが一体何なんだと言ったときに、実はそこに心というものの未来があるかもしれないと僕は思っているんです。、つまり言語化した瞬間に価値を失ってしまうことってたくさんありますよね。言わずもがなのこととか野暮ったいこととか「それを言ったらおしめぇよ」、みたいなこととか、そういう卑近な例にまで、引き寄せて考えることもできると思うし。
 去年畑中章宏さんという民俗学者の方がWIREDで『21世紀の民俗学』っていうすごく面白い本を書かれて、刊行記念の対談をB&Bでさせていただいて。その本の中で、畑中さんも民俗学者なので、柳田國男についてすごく書いていて、柳田がすごく面白い狂ったことを当時言ってたと。それが死者の投票権。河童に投票権を与えようみたいなことを言ってたんですね。それは一体何かと言ったら、河童というのは畑中さんに言わせると日本中で記述が見られるのだけど、特に東北に多いと。シチュエーションとして、東北の水害と結びつけられているというわけです。つまり河童というのは災害による死者たちの妖怪で、それは死んだ人たちのただの表象ではなくて、生き残った人たちは水害で死んでしまった人たちに対する申し訳なさ、後ろめたさを妖怪という形にかたどって忘れないように記憶化した、というんですね。河童という表象もそういう意味では、そういう名付け得ぬ感情を記憶していくために生き残っていた側が生み出したもの。それはもしかしたら佐々木さんが小説を書かないと心が持たないということにも通じるんじゃないか。積極的な言い方をすると、自分がもっと生き生きとするためにこの小説を書いたということにも通底する話だと思うんです。それで、柳田は、国家というシステムは、河童、つまり死者たちの意思を反映するべきではないかということを書いていて、畑中さんはそれを河童の投票権という表現をしている。
当然、こういう話は非合理的だと言われるんですね。ただ、河童の投票権ということはつまり、生きている我々が今の社会の向かい先を決めるときに、無念にも亡くなってしまった人たちのことをも我々は代表しないといけないよねというメッセージであるわけですね。それはものすごく真っ当な考えだと思うんですよ。例えば自分自身がね、無念にも死んだときにどうやって死んだ僕の投票権というのをこの社会の中に生かすか。それはもちろんテクニカルに詰めていかなきゃいけない話なんだけども、法制度からその権利について議論することは全然可能だし、それこそブロックチェーンのようなロバストなネットワークを上手く活用すれば実装できるとも思うんですよ。こういうことの価値を、ただの「うん、良い話だけど、難しいよね」で終わらせるんじゃなくて、本気で実装するというのが今のITで考えることのできる、本当の面白いことだと思います。



(後半に続く。後日公開)


僕らのネクロマンシー販売サイト - NUMABOOKS
IMG_10149_s