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2020年を振り返る

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11月のことだけど、奥高尾を登りながら、こう考えた。

今年はじめたか、増えたこと。
ザリガニの飼育、
家族キャンプ、
音楽を聴く時間、
ピアノ弾き語り、
子どもの寝かしつけとお話し、
自宅でのランチと15分の昼寝、
映画とドラマと長い小説、
友人とのオンライン麻雀。

今年なくなったか、減ったもの。
飲み会、
電車通勤、
旅行、
スマートニュースの極めて美味しいランチを食べる機会。

今年はとにかく家にいることが増えた。それでも、ストレスを感じるどころか、むしろのびのびといろんなことに取り組めたのは、仕事や同僚や家族に恵まれたのはもちろんのこととして、書斎づくりにこだわりを持って何年も取り組み続けてきた成果でもある。家庭と職場が一体化することがこんなに素晴らしいことだとは、こんな風になるまで想像もしてみなかった。これまでは、クラウドにあるデータしか、家庭と職場で共用できなかった。でも今は、フィジカルなものも含めてすべて同じところにある。たとえば、20年前に書いた曲のコード進行が知りたくなったときでも当時の楽譜を数秒で取り出せたり、ビデオ会議をしていて紙の本にしかないある部分を伝えたくなったときでも折り目を頼りに該当部分をすぐ探せたり。そうして書斎が脳の延長として機能する感覚がわかってくると、一望できるワークスペースを広げたくなって、ぶら下げ収納できるパーテーションで壁を覆いはじめて今、という感じ。


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同時に、遠野の実家でもリモートワークできるようにと、帰省するたびに少しずつ進めていた整理整頓と掃除を急いで仕上げて、納戸になっていた部屋を使えるようにした。そしたらまた蘇ってくるのが懐かしい記憶。GURPS(というTRPGのタイトル)のセッションを記録したカセットテープとキャラクターシートがしっかりとファイリングされた状態で出てくるんだから、やはり俺はアーキビアンの才能があるなと妙に感心したりした。


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仕事の方はどうかというと、SmartNewsにもいろいろあったし、マジック・ザ・ギャザリングにも遠野にもいろいろあった。良きことも、困ったことも。そのすべてに、あたりまえだけど、新型コロナウイルスが大きく影響している。でも、もしそれに目をつぶったとして、結果だけを見て原因を予測するゲームをしたとしたらどうか。この機会に考えてみた。おそらく「時間が10年経った」と答えるのかもしれない。

そう考えると、冒頭に書いた今年の暮らしの傾向は、自分の10年後、すなわち50歳の暮らしということになる。そんな気もしてくる。それが良いこととも、悪いこととも、今はわからないが、記憶と記録がフィジカルにもデジタルにも増えていき、それらと戯れながら格闘し、何事かを生み出していける予感を感じてとても愉しみにしている。来年も「公私混"働"」と「"諸"志貫徹」でいこう。

以下、他のところに書いた振り返り。

2020年に読んだ本から、思い出深いものを12冊選びました。
#器を買ってきた 2020
中年の発達、10年の複雑

2018年を振り返る

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十日間ほどお酒を断ってみたら、すこぶる調子がいい。早起きできるようになって、料理したり、運動したり、勉強したりする時間の確保が簡単になった。映画もよく観るようになった。そうするうちに体重も減ってきたし、いいことずくめ。これを続けたら、飲酒の習慣がなかった十年前の体重に戻すのも難しいことじゃないように思えてきた。

振り返るに、2018年というのは、あたしい職場であたらしい人々に出会い、あたらしい習慣を獲得した年だった。

夢の仕事について語るときに僕らの語ること

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お盆に帰省した際、近所の山をトレイルランしつつ目的地の神社を詣でておったところ、クマに遭遇しまして。向こうさんもびっくりしてすぐ藪の中に逃げたんですが、こっちもこっちで驚いて、お賽銭もあげぬまま苔だらけの踏み石を蹴り、飛び、転げるように下山しました。熊鈴もつけぬまま山に分け入って襲われた愚か者として名前を残すのは嫌だなとか、そういう体面を考える余裕はなかったんですが、「ここで死んでたまるか」とは思ったような気がします。

明日、2017年9月1日を最終出社日とし、本年10月末、LINE株式会社を退職いたします。

2005年からの5年間を株式会社ライブドアで、2010年からの7年間をLINE株式会社(買収当時NHN Japan株式会社)で、都合12年もの間、みなさまに大変お世話になってきました。この場を借りてご報告と、お礼を述べさせてください。本当にありがとうございました。

これはいわゆる退職エントリーというやつです。

これを書く心境になるまでに、いろんな感情を渡り歩きました。新たな目標を定めたときの奮い立つ気持ち、恋人に別れを告げるときのような不義理を詫びる気持ち、卒業生を代表して挨拶を読むときような清々しくも寂しい気持ち。いま振り返れば、どのタイミングで書いても、肩に力の入り過ぎたものになっていたように思います。力が入るのはもちろん悪いことじゃないけれど、それは、その言葉を伝えるべき人に面と向かって伝えればいいことで、ブログを使ってパフォーマンスすることじゃないよなと思います。だからここでは、肩の力を抜いて、いま心に浮かんだことだけを書いて、そのまま終わります。

退職の意思を伝えたあと、みな僕に「どうして?」とたずねました。僕はなるべく正直に答えようとしましたが、それはキャッチボールのようなもので、相手の反応によって投げるボールが違いました。みなで寄り集まって答え合わせをしたらまったく違う内容になると思いますが、それらの答えのどれもこれも、僕が投げられるだけの正直なボールです。そうご理解ください。

そういう態度で臨むと、相手も僕に正直なボールを投げ返してくれるんですね。長く付き合ってきても、これまで知ることのなかった正直な話。それは夢の仕事についての語りです。今の自分が決して偽りではないけれど本当に思っていることはこうなんだ、と。これはネガティブな話ではなくてです。現実逃避や、ワークライフバランスというお題目の悪い側面ではなく、夢と現実を融合させて人生を歩もうとする力強い言葉として、語ってくれるんです。僕は図らずして、そうした言葉を寄せ付ける媒介に(いまのところ)なったというわけで、その立場を楽しんでいます。

それについて、在職中にもっと胸襟を開いて語り合えたのではと思わないこともありませんが、まあ、望むべくもないことでしょう。そんなことばかりを語り合ってもいられないし、職業上の信頼関係があったからこそいまになって語ってくれることでもあることを思えば、ときたまこうした機会があるだけで十分であり、そうした正直な言葉は一度でも聞けば生涯に渡って忘れることはありません。

ソーシャルネットワークでつながりの途切れない時代とはいえ、退職というのは、どんなに取り繕ったって一緒に過ごす時間が激減することを意味するわけで、これからはどうしたって疎遠にならざるを得ません。そうした寂しい気持ちに支配され、退職エントリーなんて書く気になれないこともありました。
でもいまは違います。僕は正直に夢を語った。相手も正直に夢を語ってくれた。そういうプロセスを経たいま、つながりはかえって強まったという気がしてます。会う回数や交わす言葉は確かに減るだろうけど、そのつながりはいつでも、艱難辛苦をともにした日々を思い出させてくれるし、語り合った夢がこれからの毎日を潤してくれるだろうと思います。

いま僕が言う「夢」というのは、スティーブ・ジョブズやイーロン・マスクが語るようなビジョンではありません。もっとケチな話で、それは、難破した船から夜の海に放り出されるときに、肉体と精神の生存のためにぎりぎりの決断をして、これしか持ち運べなかった、というようなものです。海に浮かぶための板切れ、首からぶら下げる家族写真の入ったペンダント、信仰心を示す聖書、そしてもし手近にあれば残酷な太陽から逃れるための麦わら帽。それくらい。売っても利益にならないし、地上で屋根の下にいる他の誰も欲しがらないもの。けれど、衣服やお金をすべて捨てでも、それだけは持ち出さざるを得なかったもの。それが僕の(そして僕に正直に語ってくれた人々の)夢です。僕にはこれしかなかったんだ。僕にはこれだけあれば十分なんだ。そう思えるものだけ持って、再出発します。

というのはちょっとキザすぎる言い方で、年齢なりに身につけたずる賢さやクレバーさも使ってサヴァイヴしたいと思います。そうじゃなければ「こいつ大丈夫か?」と思われるはずなので、そこも正直に書いておきます。

ライブドアとLINEでは、まさに夢の仕事が実現できました。こんなに幸福なことはありません。幸せな時間を長く過ごしてこられました。それはもちろん、組織がもつカルチャーや、メンバーが示す深い理解があってのことで、それはいまも変わりません。素晴らしい環境でした。変わったのは自分のほうで、それはポジティブに成熟や成長だと受け止めていますが、それにあわせた次の挑戦や飛躍をしたいと思うようになりました。そしてそれさえも(私の身勝手な想いさえも)、笑顔で励まして送り出してくれるみなさんに、ただただ感謝しています。本当に、仲間に恵まれた、素晴らしい環境でした。

最後に。

ブログというのは、予言を達成する自己実現ツールだと思うので、恥ずかしげもなく(むしろ恥ずかしがっちゃいけない)夢についてのキーワードを書き記しておきます。

・板切れ = インターネット
・ペンダント = 遠野
・聖書 = 小説
・麦わら帽 = マジック・ザ・ギャザリング

この夢は、他の誰でもなく(ましてクマなんかではなく)僕が食うんだ。そういうつもりで、次の12年間を方向づけるステートメントとして正直に書きました。口は災いの元じゃないよ。幸せの元です。

次のことは、近々お伝えできるタイミングになったときにあらためてご連絡します。
多くのことを言えなくてごめんなさい。

以上。
これが今生の別れではないので、挨拶はあえてぶっきらぼうに言わせてください。
じゃあまた明日。

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夢の仕事を掴むため / Mark Rosewater

94年から95年にかけての坂本龍一のライブはいま観ても素晴らしかった

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スコラ 坂本龍一 音楽の学校』を観ていて、「これって本当に坂本龍一じゃなきゃできない、坂本龍一のための企画だよなあ」とあらためて深く感じ入りました。なぜなら、この番組で取り上げている多様な音楽を、彼は本当に、机上の空論ではなく自らの作品とし、しかもそれをポピュラー音楽として統合する試みまでしてきたからです。

最新シリーズでは「日本の伝統音楽編」が放送されています。過去には、「電子音楽」「アフリカ音楽」「映画音楽」「ロック」「ジャズ」「クラシック」などがテーマになっていて、このままだと「カントリー」と「へヴィメタ」以外はすべて網羅しちゃうんじゃないかという勢いですが、それらの要素をごった煮で楽しめるのが94年から95年にかけてライブです。オリジナルアルバムでいうと『Sweet Revenge』から『SMOOCHY』まで、ツアータイトルでいうと『Sweet Revenge Tour』から『D&L』まで。



当時も熱狂して聴いていたけど、時が経ちやがて聴かなくなって20年。ふと思い立って聴いてみたら、ちっとも色あせてなかったことを発見しました。その感激でもってこの記事を書きます。戦メリとエナジーフローで大儲けしたエコ&脱原発の女ったらしインテリくそ野郎なんかじゃないんだから!


Moving On

残念ながらライブ映像が見つからず。気になる人はぜひDVDで。
アフリカンアメリカンの影響がもっとも色濃い時代の作品で、なかでもそれを象徴する代表的トラック。一度聞いたら忘れないSP1200の12ビットのローファイなサンプリングのイントロに、ソウルというかハウスな歌声に弦楽器が絡む。消そうとも消せない坂本印が刻まれた名曲。




Reglet

こちらは映像あり。Moving Onから連続した作品です。これまた素晴らしいトラック。この流れが好きならアルバム『Sweet Revenge』を買って間違いなし。おすすめはもちろんライブ版。




羽の林で

これはアルバム『音楽図鑑』収録の古い曲なんですが、95年のライブで再演された貴重なバージョン。あまりのかっこよさに伝説となった演奏です。一生ついていこうと思ったよね。
国籍不詳のニューエイジっぽい曲調に、ハードロック的な重たいドラミングとNord Leadの即興演奏が重なって、どこにもない、ここにしかない曲になっています。




A Day in the Park

ハウス的とも言えるけど、ビートはよりアフリカンにゴロゴロ鳴っていて、一聴したポップの奥深くに工夫をこらしたサウンドプロダクションが感じられる人気曲。これと近いような作品に「Heartbea」がありますが、こちらに軍配があがるんじゃないかな。これがお好きな人はそちらもどうぞ。




Behind the Mask

おまけ。YMO時代の曲を95年にやるとこうなります。普通にはちょっと伝わりづらいですか、これが坂本流のロックンロールとでも言うべき曲。個人的にはオリジナルのほうがずっと好きだけど、いつの時代にも演奏されるこの曲はそのときどきの坂本の嗜好の風向きを示す風見鶏として貴重なので紹介しました。




今回は、あえて同じタイプの曲を並べましたが、実際のライブのセットリストはもっと多様です。「戦メリ」「ラストエンペラー」「Sweet Revenge」といったピアノ曲や、「美貌の青空」「TANGO」といった南米音楽からの影響を消化したポップスなどなんでもござれ。坂本龍一という糊(グルー)がいなければ、こんなごった煮のライブはとても聴けなかった。それは本当に確かだろうと思います。

ちなみに、この時期以降の坂本龍一は、アントニオ・カルロス・ジョビンにより傾倒していったりしつつ、やがて名作アルバム『CHASM』に至るのですが、それはまた別の話。

DVDで観るなら


“sweet revenge”Tour 1994 [DVD]
坂本龍一
フォーライフ ミュージックエンタテイメント
2000-10-18


Sweet Revenge Tour

1. ムーヴィング・オン
2. 二人の果て
3. リグレット
4. パウンデイング・アット・マイ・ハート
5. ラヴ・アンド・ヘイト
6. スウィート・リベンジ
7. アンナ
8. サイケデリック・アフタヌーン
9. メリー・クリスマス・ミスター・ロレンス
10. M.A.Y.イン・ザ・バックヤード
11. トリステ
12. ウィ・ラヴ・ユー
13. シェルタリング・スカイ
14. ハートビート
15. 7セカンズ


D&Lライブ・アット武道館11・30・95 坂本龍一ツアー95D&L WITH 原田大三郎 [DVD]
坂本龍一
フォーライフ ミュージックエンタテイメント
2003-11-26


D&L

1. 美貌の青空
2. 愛してる,愛してない
3. Tango
4. 真夏の夜の穴
5. リハーサル
6. ブリング・ゼム・ホーム
7. ザ・ラスト・エンペラー
8. Rio
9. メリー・クリスマス・ミスター・ロレンス
10. 羽の林で
11. ネット・ライヴ
12. 電脳戯話
13. バレット・メカニック
14. ア・デイ・イン・ザ・パーク
15. Insensatez
16. センチメンタル
17. ハートビート
18. Ongaku
19. ビハインド・ザ・マスク
20. 美貌の青空(スペシャル・ヴァージョン)

受け入れ難きを受け入れる 〜 『ラブ・ネヴァー・ダイズ(オペラ座の怪人2)』についてあれこれ考えてみた

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『オペラ座の怪人』(アンドリュー・ロイド・ウェバー版)に思い入れのある僕が、続編の『ラブ・ネヴァー・ダイズ』を観た結果、当然、しらけたよね。まさにこんな感じ。


あの物語を丁寧に読んだ人にとって、とても許容できない展開。正直、観なかったことにしてしまいたい……。

もちろん、いくらアンドリュー・ロイド・ウェバーの手になる正当な続編だとはいえ、僕たちはそれを黙殺することができます。プライベートな鬱屈のはけ口を創作に求めたご老人が晩節を汚す駄作を書いてしまったのだと思えばいいんです。

が、しかし。

なぜこの続編が受け入れ難いのか、そしてまた、どうだったら満足できたのかを考えることは無駄ではないはず。考えたところで『ラブ・ネヴァー・ダイズ』の評価は変わらないでしょうが、『オペラ座の怪人』をより深く理解する助けにはなるかもしれません。

ファントムとクリスティーヌに肉体関係はあったのか?


そんなわけあるかよ。というのが率直な感想なのですが、まずはその根拠を純粋に作品の中に求めてみましょう。

結局ラストで、ファントムはクリスティーヌの肉体をも求めていたわけですが、英語歌詞を知るまでは「飢えた悪魔のえじきの私」って、クリス、言い過ぎだよ、でした。ファントムの「醜くゆがんだこの顔 それが私をこうした」の「こうした」は性格的なことで肉欲まで含んでいるとは思いもしません。

…denied me the joys of the flesh,,,
日本語「醜くゆがんだこの顔」

直訳すると「(この運命は)肉体の喜びをも拒むのだ」
意訳としては「肉体の欲望が受け入れられることはなかった」


少々生々しさはあるものの、ここで肉体的なものを押し出すことで、最後の最後、ファントムが威厳と誇りとクリスティーヌとの精神世界を選ぶことが引き立つのかな、と思うようになりました。

Well Read in Phantom ♯5 - 『オペラ座の怪人』は凄いし、好き。

まさにその通りで、肉体関係がなかったと思えばこそ、クリスティーヌの最後のキスが尊い意味を持つわけで、こっちは当然そういう話だと思って観てたよね。



ちなみに、上の紹介した記事の後半には、ファントムとクリスティーヌとラウルの三重唱を、原点の英語歌詞から読み取る試みがなされていますが、言葉と一緒にメロディも蘇ってきて鼻の奥がツンとしてくる……。「Lead me, save me from my solitude...」のあたりとかもう。

しかし一方で、同じ作品の中から読み取るのでも、「肉体関係はあった」とする人もいます。

結論から言うと多分あったのだろう。
ファントムは登場シーンでクリスティーヌを「私の宝もの」と歌う。英語では「my triumph」であり直訳すると「私の勝利」だ。彼は作中でオペラを創作する。その作品名は「ドンファンの勝利(DON JUAN TRIUMPHANT)」だ。内容は殿様であるドンファンが召使のパッサリーノを使って自らの性欲を満たして行くというものだ。作中でクリスティーヌ演じるアミンタが自宅に呼ばれる。アミンタはドンファンにとっての「勝利(triumph)」というわけだ。これは音楽の天使を操り(または自らが扮して)クリスティーヌを手中に納めたファントムと酷似する。ドンファンとパッサリーノの関係はファントムと音楽の天使との関係に相似し、「勝利」が性的な対象を意味する。

ファントムとクリスティーヌの肉体関係 - オペラ座の怪人、点と線

僕の考えでは、この劇中劇は性愛の代理行為に過ぎないと思いますが、ファントムとクリスティーヌに肉体関係があったかどうかは暗示的な言葉で巧妙に煙幕がはられ、決定的な描写は避けられています。そのため、ふたりの間に肉体関係がなかったとは断言できず、「やっちゃってるんじゃないの」と思って観るのも間違いだとは言い切れません。こうした見方に説得力を与えるにはかなり強引な解釈が必要だと感じますが、それを完全に否定するだけの材料もまたないんですね。

no title

では、作品の外側から読み取ることはできるでしょうか。
自分はまったく気づきませんでしたが、映画版『オペラ座の怪人』にはこんなほのめかしがあったようです。

唯一、「もしや?」と思うシーンは、ファントムが最初にクリスティーヌを隠れ家に連れて行ったとき、彼女はウェディングドレスを着せられた自分の等身大の人形を見て倒れ、ファントムがベッドに運ぶのですが、彼女が目覚めたとき、隠れ家にきたときに履いていたガータストッキングを履いていなかったところ。

ファントムの愛と性 - Something Blue ...

もうひとつ。Susan Kayが書いた小説『ファントム』(自分は未読)には、以下のようなシーンがあるそうです。

隠れ家でファントムがオルガンでこの曲を演奏したとき、ファントムによって別室に閉じこもるよう命じられたクリスティーヌがそれを聞いて、性的なファンタジーに浸るのです。ファントムがなぜ彼女を部屋に閉じこめたかというと、性的欲望に負けそうになったためです。そしてこの曲を演奏することで「音楽で犯した」と書かれています。

ファントムの愛と性 - Something Blue ...

「ファントムとクリスティーヌに肉体関係はあったのか?」という問題は、さまざまな作家や演出家の創作意欲を刺激するモチーフなんでしょうね。あってもおかしくはない、という想像の余地を残す演出。なかったんだけど、それより過激な代理行為をさせる演出。さらには、クリスティーヌとの間にはなかったんだけどマダム・ジリーとの間にはなにかあったかもよ、とする演出まであるそうです(どの作品のことか未確認)。



しかしいずれの場合も共通するのは、「肉体関係があったという決定的な証拠はない」ということであり、「プラトニックラブとエロスの間の煩悶こそがこの作品の根源的な魅力のひとつである」、ということになろうかと思います。

……と、このように考えたところで、結論は第一印象と変わらないんですけどね。駄作です。

『ラブ・ネヴァー・ダイズ』が受け入れ難いたったひとつの理由は、ファントムとクリスティーヌがあの夜(「ミュージック・オブ・ザ・ナイト」のあの晩)の肉体関係を認めてしまったことにあります。そのせいで、絶妙なバランスの上に成り立っていた過去の『オペラ座の怪人』の演出がすべて台無しになってしまうという……。

めちゃくちゃすぎて逆におもしろいっちゃおもしろいんですが、受け入れ難きを受け入れて『ラブ・ネヴァー・ダイズ』を楽しむために、どうだったら満足できたのかもうちょっと考えてみました。

親子関係こそ続編のテーマにふさわしかったのでは?


『オペラ座の怪人』は、ファントムとクリスティーヌとラウルの三角関係が物語の中心でした。しかるに、『ラブ・ネヴァー・ダイズ』でその三角関係を繰り返してどうするんでしょうか。ファントムとクリスティーヌの息子・ギュスターヴを登場させるのであれば、それを中心にして各登場人物に別の角度から光を与えるべきだったのでは。

「親子」というキーワードを使うと、前作では深く掘り下げられなかったいくつかの人間関係が浮き上がってきます。

1. ファントムと、彼を見世物小屋に売りとばした母親
2. クリスティーヌと、バイオリン奏者の父親
3. メグ・ジリーと、母親のマダム・ジリー


まだあります。血のつながりのない親子関係です。

4. ファントムと、彼を見世物小屋からひろった代理母としてのマダム・ジリー
5. クリスティーヌと、父親の影をまとって登場する音楽の天使(ファントム)
6. ギュスターヴと、ラウル


これらをもっと掘り下げてみたらどうだったんでしょうね。

そうするとたとえば、ファントムがクリスティーヌのためにあたためていた曲「Love Never Dies」は、ファントムに向けてではなく、死にゆく母・クリスティーヌが愛息・ギュスターヴのために歌うのかもしれません。

また、アンドリュー・ロイド・ウェバーの恨みを買ってしまったせいなのか知りませんがいいところなしのラウルには、血を超えた親子の絆を示すためにもギュスターヴをますます愛してやってほしいところ。酒を断ち、ファントムからギュスターヴを取り返し、悲劇の連鎖を断ち切ってあげましょう。

そしてファントムは、はじめのうちクリスティーヌのために歌っていた「Til I Hear You Sing」をメグ・ジリーのために歌ってあげてはどうだったでしょうか。プラトニックラブとエロスの間で煩悶していた頃の自分とは違うのだということを見せつけてやるんです。かつて自由自在に操れた「音楽の力」の加護はもうない(なぜならあなたはすでにクリスティーヌの愛によって目覚め、また老いてきているのだから)。いま自分を突き動かしているのは、若き性愛による醜い執着であることを進んで認め、人生の後半に差し掛かった自分と折り合いをつけてはどうだったでしょうか。ファントムにはそうした人格の成熟を見せてほしかった(アンドリュー・ロイド・ウェバーさん、あなたのことでもありますよ!)。

もしそうでないのなら、実子・ギュスターヴの存在を知ったときに、それを否定してほしかった。突然、父親になってしまった自分におののいてほしかった。間違っても、家族愛などに目覚めずに、孤独にしか生きられない性を全うしてほしかった。そしてそのとき、自ら画面を剥ぎ取り「ダーーーダダダダー♪」というオペラ座の怪人のテーマが流れたとしたら……きっとゾクっとしただろうなあ。
あるいはまた、半ば崩壊が暗示されていたラウルとクリスティーヌとギュスターヴの家族の絆を再び確かなものにするため、かつてはコンプレックスだった醜い肉体を道化のための武器に変えて、ラウル一家のために悪役を買って出るのもよかったかも。



以上、妄想でした。
なんだかんだ言ってファンは見逃せない作品です。未見の方はお楽しみに!

ただし「Til I Hear You Sing」はイイ!




DVDで観るなら


オペラ座の怪人 25周年記念公演 in ロンドン [DVD]
ラミン・カリムルー
ジェネオン・ユニバーサル
2012-12-05




関連リンク


ミュージカル初心者の私が『オペラ座の怪人』を観るたびに涙するようになるまで
http://sasakill.blog.jp/archives/50755589.html

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