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1997年9月17日のナバーナ - 「佐々木さん、人って変われると思いますか?」と言われて考えたこと(1)

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さて、どこから書こうかな。

僕が定刻に居酒屋に着くと、先に来て待っていた友人がこう切り出しました。「佐々木さん、人って変われると思いますか?」と、いきなりです。

その友人には個人的な事情があって、それはあとから聞かされることになるんだけど、ここでは何も書きません。だから、これを読んでくれているみなさんも、この瞬間の僕と同じように、ぽんと机上に乗せられた大命題と純粋に差し向かいになって考えてみてください。人は変われるのか?

僕は、ちょっと考えて、言葉を選んだつもりで、こう答えました。

人は、変わらない思います。でも、自分は変わってきました

文字面だけ追うならば、一行ですでに矛盾してしまっています。おかしな言い回しだよなと自分でも思うし、もちろん、友人がそれで膝を打ってくれるということもありませんでした。でもそれは、その場しのぎのでまかせなんかじゃなく、確かなことだと思って言ったものです。

すぐに最初の一杯が出てきてたのでそこから先は友人の相談を聞く番になり、やがてふたりとも酔っ払い、その答えについてさらに突っ込んで語り合う機会はありませんでした。でも、いまあらためて同じ答えを言い換えてみるならば、こうします。

他者に変化を強いることはできない。でも、自分を変えることはできる

もう一言だけ加えるならこう。

与えられたものは交換不可能だけど、それをどう使うかは選択できる

僕はこのことに強い確信をもっているんだけど、すでに書いているように、それを語ったところで他者に変化を強いることはできないと思っているので、友人の話をさえぎってまでくどくどとそんな補足をしようとは思わなかったんです。
その友人にしたって、自分が変わりたくて聞いたのか、誰かに変わってもらいたくて聞いたのか、いいやその実なにも変わりゃしないんだってことを確かめたくて聞いたのかわからなかったし、そのときは深追いするような話じゃないと思ったんです。

でもそれからの一週間、「人って変われると思いますか?」という問いが自分の中に沈殿して、澱のように漂い続けました。自分が答えた「人は、変わらないと思います。でも、自分は変わってきました」ってどういうことなんだっけ。なんでそのときの自分はそう答えたんだっけ、と。僕はそのボトルを飲み干して底にある澱を取り除かずにはいられなかった、というわけです。

だからこの先の文章は、そのときの問いによりよく答えるための誰に宛てたわけでもない長いモノローグです。ブログでなら、他者に変化を強いることなく思っていることが自然に書けるかもしれない、そう思って。


1997年9月17日のナバーナ


このとき僕は高校三年生で、その日のことは今でもよく覚えています。

朝、目がさめると、悟りを得ていました。

人間とは何か、人生とは何か、生きているとはなんと素晴らしいことか、ということが、一切の思考的プロセス抜きに、突然、すべてわかったんです。NHKで見たドキュメントによれば、アンドリュー・ワイルズがフェルマーの最終定理を解いたときがそんな感じだったらしいですよ。エレガント、エレガント言ってました。よく知りませんけど。

で、もちろんそれは、すでに過去の誰かが発見済みの真理ではあったんだろうけど(これはその後の20年の読書人生の中で何度も確かめられました)、そのときの僕にとっては、自分に手による大発見のように思えたし、瞬間的に真理に到達できたという「悟り」としかいいようのない感動体験に、全身が痺れるような思いがして、文字通り、そのときから世界が変わって見えました。

その直後、自分がやったのは、漫画を描くとことでした。

その真理について、自分ではよくわかっているんだけど、誰かに説明するには言葉にしなければならないわけですからね。でも、冷静になって論理的な文章を書くには興奮しすぎていたので、勢いにまかせて、そのときまで一度も描いたこともない漫画という手法を使って、そのとき悟った真理を言葉に移し替えていこうとしたわけです。

そのときの作品に書かれてある日付が、1997年9月17日。今回、この記事を書くにあたって久しぶりにその漫画を引っ張り出してきたので確かです。よくまあ今まで大事に保管してたなと我ながら思いますが、それだけ忘れがたい、特別な出来事だったんです。

というわけで、これがそのとき描いたものの一部です。どうぞご笑覧ください。


この漫画、タイトルは『死んで飛ぶ鳥』といいますが、ここで何を言っているか、説明します。

まず冒頭で、人には純粋なオリジナリティや個性なんてものは存在しないんだと、17歳の僕が主張します。自分という存在は、他者との関わりのなかに生まれる結び目がかろうじて作っているあやふやな輪郭でしかない、という話です。

しかしそれは、自分という存在の限界ではなく、むしろ無限の可能性を示しているのだと、個にして全なのだと、宇宙なのだと、17歳の僕は強く強く主張します。それがちょうど上に掲載したページで、このあたりもう、気持ちよくなっちゃってきてますね。

はい。それでつまり、自分という存在は他者との関わりなかにこそあるのだから、自分を変えるには、他者との関わりを変えるしかない、という方向へ話が進んでいきます。
他者そのものを変えてしまうことはできません。他者を(たとえば家族を)選び直すことも困難で、普通の手段ではなかなかできません。当然ですね。だから変えるべきなのは、他者との関わりです。

その方法として17歳の僕は「表現し、還元され、成長する」というマントラを繰り返し唱えます。

他者との関わりを変えるためには、自分を表現するしかない。自分がどうありたいのか、勇気をもってさらけだせよと。それが実行されれば、関わりに変化が生まれ、自分に跳ね返ってくる。それが還元。さすれば汝成長せん、というわけです。つまり自分を変えられるってこと。

その「表現し、還元され、成長する」というサイクルによって、人は表現し続ける限り望んだ自分に変わることができるのだという人間讃歌を歌い上げていくと、そういう漫画です。いやー、怖いもの知らずでした。

このときの気分は、今でも本当によくおぼえています。
自分は何者でもないが、同時に、あらゆる他者に影響され得るという意味で、過去とも辺境とも同時に接続された全き者なんだという相互依存的な世界観を理解したときの希望たるや、最高の気分でした。
同時に、その可能性を引き出すために必要なのは、表現という働きかけをする勇気ひとつだというわけです。表現には、才能も財産も関係ないわけで、誰もが等しく実行できる具体的な手段です。これもまた希望ですよね。

だから人生って楽しいぜ、人間って素晴らしいぜ、という大発見を伝えたくて描き終えたばかりの漫画を読ませに自転車漕ぎ漕ぎ同級生の家を訪ねました。おそらく、僕のテンションが異様に高かったろうことは想像に難くないので、そのときに理解してもらえるように伝えられたとは思いませんが、まあ伝わっても伝わってなくても、そのときのひとりとは今でもつきあいが続く親友となり、また別のもうひとりとは、だいぶあとになって一緒に暮らすようになりました。妻です。

まあそのあたりの話はちょっと置いておくとして、こうした考え方の元になった世界観について、自信を深めた文献がありました。3世紀に編まれた経典『華厳経』で、そこに書かれてあるという「インドラの網」というのがまさに「他者との関わりのなかに生まれる結び目がかろうじて作っているあやふやな輪郭」とか「個にして全」を表現したものでした。
私がその話を知ったのは天沢退二郎さんによる宮沢賢治研究の本のどれかだったと思うのですが、それに該当する部分を見つけることができなかったので、それとは別の方、野村哲也さんの本から一節を引かせていただきます。


バルデスの話を聞きながら,僕は宮沢賢治の「インドラの網」という童話を思い出していた.華厳経に説かれるインドラの網は,インドの勇猛な神「帝釈天」の宮殿にかけられた,巨大な球状の網のこと.その結び目には,美しい水晶の宝珠が縫い込まれ,全体が宇宙そのものを表現しているとされる.また宝珠の一つひとつが他の一切の宝珠を映し込んでいることから,ひとつの宝珠に宇宙のすべてが収まっている,というようにも考える.

カラー版・世界の四大花園を行く―砂漠が生み出す奇跡』(野村哲也)

ちなみに、この一節を探すにあたり、『宮沢賢治と早田文蔵:華厳経の「インドラの網」と高次元分類ネットワークとの関係』という記事を参照させていただきました。我が身にのみひきつけて物申す勝手な紹介の仕方で恐縮ですが、私の戯言を補強してくれる内容でしたので、ここに紹介させていただきます。

インドラの網のことを知ったのは、この漫画を描いた数年後だったと思いますが、1800年以上も前に同じようなことを考えた人間と通じ合えた気がしてめちゃくちゃ興奮しましたね。君とはいい友達になれそうだ! とかなんとか思ったような気がします。

このときに授かった霊感は、長い間にわたって僕を励ましてくれました。それは冒頭に書いた「他者に変化を強いることはできない。でも、自分を変えることはできる」や「与えられたものは交換不可能だけど、それをどう使うかは選択できる」というスタンスにも地続きになっていて、実に20年近く経ってもまだ有効期限が切れていない。むしろまだまだいけるんじゃないかという気にすらなっています。

さて、すでにだいぶ長くなってしまいました。ここで書き終えてしまっても誰が困るわけでもないのですが、もともとがモノローグと断っているブログですから、まだ少しだけ続けます。あのときに自分は変わったなと思った瞬間が他にもあって、それにまつわる感動を書きつけておきたい気分なので。

(つづく)

94年から95年にかけての坂本龍一のライブはいま観ても素晴らしかった

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スコラ 坂本龍一 音楽の学校』を観ていて、「これって本当に坂本龍一じゃなきゃできない、坂本龍一のための企画だよなあ」とあらためて深く感じ入りました。なぜなら、この番組で取り上げている多様な音楽を、彼は本当に、机上の空論ではなく自らの作品とし、しかもそれをポピュラー音楽として統合する試みまでしてきたからです。

最新シリーズでは「日本の伝統音楽編」が放送されています。過去には、「電子音楽」「アフリカ音楽」「映画音楽」「ロック」「ジャズ」「クラシック」などがテーマになっていて、このままだと「カントリー」と「へヴィメタ」以外はすべて網羅しちゃうんじゃないかという勢いですが、それらの要素をごった煮で楽しめるのが94年から95年にかけてライブです。オリジナルアルバムでいうと『Sweet Revenge』から『SMOOCHY』まで、ツアータイトルでいうと『Sweet Revenge Tour』から『D&L』まで。



当時も熱狂して聴いていたけど、時が経ちやがて聴かなくなって20年。ふと思い立って聴いてみたら、ちっとも色あせてなかったことを発見しました。その感激でもってこの記事を書きます。戦メリとエナジーフローで大儲けしたエコ&脱原発の女ったらしインテリくそ野郎なんかじゃないんだから!


Moving On

残念ながらライブ映像が見つからず。気になる人はぜひDVDで。
アフリカンアメリカンの影響がもっとも色濃い時代の作品で、なかでもそれを象徴する代表的トラック。一度聞いたら忘れないSP1200の12ビットのローファイなサンプリングのイントロに、ソウルというかハウスな歌声に弦楽器が絡む。消そうとも消せない坂本印が刻まれた名曲。




Reglet

こちらは映像あり。Moving Onから連続した作品です。これまた素晴らしいトラック。この流れが好きならアルバム『Sweet Revenge』を買って間違いなし。おすすめはもちろんライブ版。




羽の林で

これはアルバム『音楽図鑑』収録の古い曲なんですが、95年のライブで再演された貴重なバージョン。あまりのかっこよさに伝説となった演奏です。一生ついていこうと思ったよね。
国籍不詳のニューエイジっぽい曲調に、ハードロック的な重たいドラミングとNord Leadの即興演奏が重なって、どこにもない、ここにしかない曲になっています。




A Day in the Park

ハウス的とも言えるけど、ビートはよりアフリカンにゴロゴロ鳴っていて、一聴したポップの奥深くに工夫をこらしたサウンドプロダクションが感じられる人気曲。これと近いような作品に「Heartbea」がありますが、こちらに軍配があがるんじゃないかな。これがお好きな人はそちらもどうぞ。




Behind the Mask

おまけ。YMO時代の曲を95年にやるとこうなります。普通にはちょっと伝わりづらいですか、これが坂本流のロックンロールとでも言うべき曲。個人的にはオリジナルのほうがずっと好きだけど、いつの時代にも演奏されるこの曲はそのときどきの坂本の嗜好の風向きを示す風見鶏として貴重なので紹介しました。




今回は、あえて同じタイプの曲を並べましたが、実際のライブのセットリストはもっと多様です。「戦メリ」「ラストエンペラー」「Sweet Revenge」といったピアノ曲や、「美貌の青空」「TANGO」といった南米音楽からの影響を消化したポップスなどなんでもござれ。坂本龍一という糊(グルー)がいなければ、こんなごった煮のライブはとても聴けなかった。それは本当に確かだろうと思います。

ちなみに、この時期以降の坂本龍一は、アントニオ・カルロス・ジョビンにより傾倒していったりしつつ、やがて名作アルバム『CHASM』に至るのですが、それはまた別の話。

DVDで観るなら


“sweet revenge”Tour 1994 [DVD]
坂本龍一
フォーライフ ミュージックエンタテイメント
2000-10-18


Sweet Revenge Tour

1. ムーヴィング・オン
2. 二人の果て
3. リグレット
4. パウンデイング・アット・マイ・ハート
5. ラヴ・アンド・ヘイト
6. スウィート・リベンジ
7. アンナ
8. サイケデリック・アフタヌーン
9. メリー・クリスマス・ミスター・ロレンス
10. M.A.Y.イン・ザ・バックヤード
11. トリステ
12. ウィ・ラヴ・ユー
13. シェルタリング・スカイ
14. ハートビート
15. 7セカンズ


D&Lライブ・アット武道館11・30・95 坂本龍一ツアー95D&L WITH 原田大三郎 [DVD]
坂本龍一
フォーライフ ミュージックエンタテイメント
2003-11-26


D&L

1. 美貌の青空
2. 愛してる,愛してない
3. Tango
4. 真夏の夜の穴
5. リハーサル
6. ブリング・ゼム・ホーム
7. ザ・ラスト・エンペラー
8. Rio
9. メリー・クリスマス・ミスター・ロレンス
10. 羽の林で
11. ネット・ライヴ
12. 電脳戯話
13. バレット・メカニック
14. ア・デイ・イン・ザ・パーク
15. Insensatez
16. センチメンタル
17. ハートビート
18. Ongaku
19. ビハインド・ザ・マスク
20. 美貌の青空(スペシャル・ヴァージョン)

受け入れ難きを受け入れる 〜 『ラブ・ネヴァー・ダイズ(オペラ座の怪人2)』についてあれこれ考えてみた

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『オペラ座の怪人』(アンドリュー・ロイド・ウェバー版)に思い入れのある僕が、続編の『ラブ・ネヴァー・ダイズ』を観た結果、当然、しらけたよね。まさにこんな感じ。


あの物語を丁寧に読んだ人にとって、とても許容できない展開。正直、観なかったことにしてしまいたい……。

もちろん、いくらアンドリュー・ロイド・ウェバーの手になる正当な続編だとはいえ、僕たちはそれを黙殺することができます。プライベートな鬱屈のはけ口を創作に求めたご老人が晩節を汚す駄作を書いてしまったのだと思えばいいんです。

が、しかし。

なぜこの続編が受け入れ難いのか、そしてまた、どうだったら満足できたのかを考えることは無駄ではないはず。考えたところで『ラブ・ネヴァー・ダイズ』の評価は変わらないでしょうが、『オペラ座の怪人』をより深く理解する助けにはなるかもしれません。

ファントムとクリスティーヌに肉体関係はあったのか?


そんなわけあるかよ。というのが率直な感想なのですが、まずはその根拠を純粋に作品の中に求めてみましょう。

結局ラストで、ファントムはクリスティーヌの肉体をも求めていたわけですが、英語歌詞を知るまでは「飢えた悪魔のえじきの私」って、クリス、言い過ぎだよ、でした。ファントムの「醜くゆがんだこの顔 それが私をこうした」の「こうした」は性格的なことで肉欲まで含んでいるとは思いもしません。

…denied me the joys of the flesh,,,
日本語「醜くゆがんだこの顔」

直訳すると「(この運命は)肉体の喜びをも拒むのだ」
意訳としては「肉体の欲望が受け入れられることはなかった」


少々生々しさはあるものの、ここで肉体的なものを押し出すことで、最後の最後、ファントムが威厳と誇りとクリスティーヌとの精神世界を選ぶことが引き立つのかな、と思うようになりました。

Well Read in Phantom ♯5 - 『オペラ座の怪人』は凄いし、好き。

まさにその通りで、肉体関係がなかったと思えばこそ、クリスティーヌの最後のキスが尊い意味を持つわけで、こっちは当然そういう話だと思って観てたよね。



ちなみに、上の紹介した記事の後半には、ファントムとクリスティーヌとラウルの三重唱を、原点の英語歌詞から読み取る試みがなされていますが、言葉と一緒にメロディも蘇ってきて鼻の奥がツンとしてくる……。「Lead me, save me from my solitude...」のあたりとかもう。

しかし一方で、同じ作品の中から読み取るのでも、「肉体関係はあった」とする人もいます。

結論から言うと多分あったのだろう。
ファントムは登場シーンでクリスティーヌを「私の宝もの」と歌う。英語では「my triumph」であり直訳すると「私の勝利」だ。彼は作中でオペラを創作する。その作品名は「ドンファンの勝利(DON JUAN TRIUMPHANT)」だ。内容は殿様であるドンファンが召使のパッサリーノを使って自らの性欲を満たして行くというものだ。作中でクリスティーヌ演じるアミンタが自宅に呼ばれる。アミンタはドンファンにとっての「勝利(triumph)」というわけだ。これは音楽の天使を操り(または自らが扮して)クリスティーヌを手中に納めたファントムと酷似する。ドンファンとパッサリーノの関係はファントムと音楽の天使との関係に相似し、「勝利」が性的な対象を意味する。

ファントムとクリスティーヌの肉体関係 - オペラ座の怪人、点と線

僕の考えでは、この劇中劇は性愛の代理行為に過ぎないと思いますが、ファントムとクリスティーヌに肉体関係があったかどうかは暗示的な言葉で巧妙に煙幕がはられ、決定的な描写は避けられています。そのため、ふたりの間に肉体関係がなかったとは断言できず、「やっちゃってるんじゃないの」と思って観るのも間違いだとは言い切れません。こうした見方に説得力を与えるにはかなり強引な解釈が必要だと感じますが、それを完全に否定するだけの材料もまたないんですね。

no title

では、作品の外側から読み取ることはできるでしょうか。
自分はまったく気づきませんでしたが、映画版『オペラ座の怪人』にはこんなほのめかしがあったようです。

唯一、「もしや?」と思うシーンは、ファントムが最初にクリスティーヌを隠れ家に連れて行ったとき、彼女はウェディングドレスを着せられた自分の等身大の人形を見て倒れ、ファントムがベッドに運ぶのですが、彼女が目覚めたとき、隠れ家にきたときに履いていたガータストッキングを履いていなかったところ。

ファントムの愛と性 - Something Blue ...

もうひとつ。Susan Kayが書いた小説『ファントム』(自分は未読)には、以下のようなシーンがあるそうです。

隠れ家でファントムがオルガンでこの曲を演奏したとき、ファントムによって別室に閉じこもるよう命じられたクリスティーヌがそれを聞いて、性的なファンタジーに浸るのです。ファントムがなぜ彼女を部屋に閉じこめたかというと、性的欲望に負けそうになったためです。そしてこの曲を演奏することで「音楽で犯した」と書かれています。

ファントムの愛と性 - Something Blue ...

「ファントムとクリスティーヌに肉体関係はあったのか?」という問題は、さまざまな作家や演出家の創作意欲を刺激するモチーフなんでしょうね。あってもおかしくはない、という想像の余地を残す演出。なかったんだけど、それより過激な代理行為をさせる演出。さらには、クリスティーヌとの間にはなかったんだけどマダム・ジリーとの間にはなにかあったかもよ、とする演出まであるそうです(どの作品のことか未確認)。



しかしいずれの場合も共通するのは、「肉体関係があったという決定的な証拠はない」ということであり、「プラトニックラブとエロスの間の煩悶こそがこの作品の根源的な魅力のひとつである」、ということになろうかと思います。

……と、このように考えたところで、結論は第一印象と変わらないんですけどね。駄作です。

『ラブ・ネヴァー・ダイズ』が受け入れ難いたったひとつの理由は、ファントムとクリスティーヌがあの夜(「ミュージック・オブ・ザ・ナイト」のあの晩)の肉体関係を認めてしまったことにあります。そのせいで、絶妙なバランスの上に成り立っていた過去の『オペラ座の怪人』の演出がすべて台無しになってしまうという……。

めちゃくちゃすぎて逆におもしろいっちゃおもしろいんですが、受け入れ難きを受け入れて『ラブ・ネヴァー・ダイズ』を楽しむために、どうだったら満足できたのかもうちょっと考えてみました。

親子関係こそ続編のテーマにふさわしかったのでは?


『オペラ座の怪人』は、ファントムとクリスティーヌとラウルの三角関係が物語の中心でした。しかるに、『ラブ・ネヴァー・ダイズ』でその三角関係を繰り返してどうするんでしょうか。ファントムとクリスティーヌの息子・ギュスターヴを登場させるのであれば、それを中心にして各登場人物に別の角度から光を与えるべきだったのでは。

「親子」というキーワードを使うと、前作では深く掘り下げられなかったいくつかの人間関係が浮き上がってきます。

1. ファントムと、彼を見世物小屋に売りとばした母親
2. クリスティーヌと、バイオリン奏者の父親
3. メグ・ジリーと、母親のマダム・ジリー


まだあります。血のつながりのない親子関係です。

4. ファントムと、彼を見世物小屋からひろった代理母としてのマダム・ジリー
5. クリスティーヌと、父親の影をまとって登場する音楽の天使(ファントム)
6. ギュスターヴと、ラウル


これらをもっと掘り下げてみたらどうだったんでしょうね。

そうするとたとえば、ファントムがクリスティーヌのためにあたためていた曲「Love Never Dies」は、ファントムに向けてではなく、死にゆく母・クリスティーヌが愛息・ギュスターヴのために歌うのかもしれません。

また、アンドリュー・ロイド・ウェバーの恨みを買ってしまったせいなのか知りませんがいいところなしのラウルには、血を超えた親子の絆を示すためにもギュスターヴをますます愛してやってほしいところ。酒を断ち、ファントムからギュスターヴを取り返し、悲劇の連鎖を断ち切ってあげましょう。

そしてファントムは、はじめのうちクリスティーヌのために歌っていた「Til I Hear You Sing」をメグ・ジリーのために歌ってあげてはどうだったでしょうか。プラトニックラブとエロスの間で煩悶していた頃の自分とは違うのだということを見せつけてやるんです。かつて自由自在に操れた「音楽の力」の加護はもうない(なぜならあなたはすでにクリスティーヌの愛によって目覚め、また老いてきているのだから)。いま自分を突き動かしているのは、若き性愛による醜い執着であることを進んで認め、人生の後半に差し掛かった自分と折り合いをつけてはどうだったでしょうか。ファントムにはそうした人格の成熟を見せてほしかった(アンドリュー・ロイド・ウェバーさん、あなたのことでもありますよ!)。

もしそうでないのなら、実子・ギュスターヴの存在を知ったときに、それを否定してほしかった。突然、父親になってしまった自分におののいてほしかった。間違っても、家族愛などに目覚めずに、孤独にしか生きられない性を全うしてほしかった。そしてそのとき、自ら画面を剥ぎ取り「ダーーーダダダダー♪」というオペラ座の怪人のテーマが流れたとしたら……きっとゾクっとしただろうなあ。
あるいはまた、半ば崩壊が暗示されていたラウルとクリスティーヌとギュスターヴの家族の絆を再び確かなものにするため、かつてはコンプレックスだった醜い肉体を道化のための武器に変えて、ラウル一家のために悪役を買って出るのもよかったかも。



以上、妄想でした。
なんだかんだ言ってファンは見逃せない作品です。未見の方はお楽しみに!

ただし「Til I Hear You Sing」はイイ!




DVDで観るなら


オペラ座の怪人 25周年記念公演 in ロンドン [DVD]
ラミン・カリムルー
ジェネオン・ユニバーサル
2012-12-05




関連リンク


ミュージカル初心者の私が『オペラ座の怪人』を観るたびに涙するようになるまで
http://sasakill.blog.jp/archives/50755589.html

ポップスの終わり、ポップスの先(あるいは、Lampの新曲「さち子」はすごいからみんな聴け、という話)

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そういえば、ダフト・パンクの『Random Access Memories』の感想を書き忘れてました。

第一印象もよく、コンセプトアルバムとしての魅力もあり、聴きはじめて1ヶ月くらいはノリノリでリピートしていたんですよ。いろんな評論家の解説を読むのも楽しくて、「これはダフト・パンク版の『ヘッド博士の世界塔』だ」なんて言われるとおもしろくていろいろ考えるじゃないですか。でも、結局は深く熱中することなく飽きてしまいました。

頭に浮かんでいたのは「ポップスの終わり」という言葉。

分解され、再生産され、切り刻まれ、消えたかと思ったら高度な技術で蘇生手術を受けて現代によみがえったゾンビのよう。そうやってつるつるにアンチエイジングされたゾンビがもてはやされるのなら、ポップスの進化もここまでだよな、と。

一方、ライブバンドとしてのダフト・パンクは引き続きおもしろい。
先日のグラミー賞でのパフォーマンスも楽しんで観ました。
来日したら次も絶対に観たいと思ってます。



そういえば、ダフト・パンクの『Random Access Memories』というアルバムを、こんな風に表現している人がいました。

「さまざまなジャンルの音楽を融合してポップスに昇華させていった全盛期のマイケル・ジャクソンのようだ」

それで思い出した曲がこれ。マイケル・ジャクソンの「Behind The Mask」。死後に発表されたアルバム『Michael』に収録された未発表録音で、YMO(作曲・坂本龍一)のカバー曲です。



ロックとテクノとソウルが高度に融合したポップスのお手本みたい。めちゃくちゃすごい。
これがいまから30年くらい前の作品ですからね。ダフトパンクもっとがんばれ。

というようなことをここ数日考えていたんですが、「さまざまなジャンルの音楽を融合してポップスに昇華させているミュージシャン」という文脈でいま頭に浮かぶのはLamp。3年ぶりのニューアルバムから先行発表された「さち子」は、かなりすごいとこまでいっちゃった名曲に聞こえる。



数年前のライブで初披露された荒いアレンジでも衝撃を受けたけど、今回の録音盤は本当に隙がない。完璧。ライブのときに「すごい曲ができてしまった……」と興奮しているリーダー・染谷太陽さんがとても印象的だったけど、そのすごさが存分に伝わる内容になっています。この曲に寄せた「これ以上の曲は作れないかもしれない」というコメントも大げさじゃない。

何度聴いても震えるような名曲。ポップスにはまだ、こんな豊かな空間が残されてるんだよなあ……そんな感慨さえ湧き起ってきます。すごく幸せ。こんな風に「ポップスの先」を見せてくれる音楽に、あとどれくらい出会えるかなあ。

ゆめ
Lamp
P.S.C.
2014-02-05



関連記事


Lampの6thアルバム『東京ユウトピア通信』の強烈なミュージシャンシップ
http://sasakill.blog.jp/archives/50673139.html

前のアルバムの視聴会のときの、ファンとのやりとりの記録が残っていました(マメにブログを更新していてよかった)。

客席の男性:60年代、70年代と深化してきたポピュラーミュージックが、80年代になって、レコーディング技術の発展やMTVの登場などによって、別の道に進んでしまった。AORなどにあった可能性も、そこで閉ざされてしまった。でもLampの音楽は、そのときに掘り下げられなかった可能性を追求し続け、深化させている貴重な存在。もし未来のDJが良質な音楽を発掘しようとすれば、60〜70年代の音楽に続いて2010年のLampの音楽を発見するのではないか。それくらいに思っている。

そこで質問ですが、Lampには、21世紀の音楽を背負っているという自負はあるのでしょうか?

染谷太陽:はい。そのつもりでやってます。

※記憶による原稿起こし。間違ってたらすみません。

どやっ。
そして有言実行のニューアルバム。
ダフト・パンクの『Random Access Memories』とか聞いてる場合じゃない。

追記



最新のインタビューを見ても、だいぶ志が高い。

インタビュー記事はこちら。
http://www.hmv.co.jp/news/article/1401300036/

今回のアルバムからアレンジを担当した北園みなみさん。
https://twitter.com/M_KItasono

韓国出張の際、CHAGE&ASKAの「On Your Mark」(2000年韓国ライブ版)で心がひとつになった話

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この一週間、韓国出張に来ています。

日中は仕事に忙殺され、夜は夜で韓国のメンバーと懇親会。
そこで印象的だったのは、韓国の事業責任者と一緒にカラオケでCHAGE&ASKAの「On Your Mark」をデュエットしたこと。私のもっとも好きな曲のひとつです。

そのときは、しこたまに酔っ払なっていたので「なんでこの曲を知っているの?」だなんてことも話さずに解散してしまったんですが、後日、やっぱり気になって聞いてみました。

わたし「CHAGE&ASKAがお好きなんですか?」
――「中学生の頃からのファンです!」
わたし「じゃあもしかして、2000年の韓国ライブに行きました? あの、あの『On Your Mark』を聞いたんですか?」
――「そうです! 飛鳥さんが、泣きながら歌ったあの『On Your Mark』ですね?」
わたし「そう! それです!」
――「韓国ではそれまで、日本の音楽は公には聴いてはいけないことになっていました。だけど初めて、CHAGE&ASKAが日本語でコンサートをしたんです。そのとき、ソウルオリンピックをやった大きな会場が、ファンで埋め尽くされたんです。こんなにも、みんなが日本のアーティストを、CHAGE&ASKAを応援していたのかと知って、ものすごく感激したんです」
わたし「その場にいられたなんてうらやましいです。あのときの、飛鳥のメッセージは聞こえましたか?」
――「そのときは、遠くの席だったのでほとんど聞こえませんでした。でもあとになって、YouTubeで動画を見て、ものすごく感激しました」
わたし「素晴らしかったですね……」
――「ええ、とても素晴らしかったです……」

そして僕らは、目を潤ませながらかたい握手をしました(まじで)。
本当に本当に、心がひとつになったような感激でした。

そのときの『On Your Mark』の動画こちらです。





実はこの前日、深夜のレストランで、現地在住の韓国人に「従軍慰安婦問題」「電力問題」「ロシア国交問題」といったデリケートな議論を吹っ掛けられるという経験をしました。簡単に答えられない問題を前にして、僕らも、そして議論を吹っ掛けたほうも戸惑っていました(たぶんそうだったと思います)。
たしかに僕らは、同じ過去を見ることはできない。でも同じ未来を見ることはできる。そのことだけは何度も折に触れながら確認しあい、そして別れました(っていうか1時を過ぎてたし眠かったので「もうそろそろこの辺で勘弁して……」って感じだったけど)。

まあつまり、そういう体験を真っ先にしてきたCHAGE&ASKAの友好大使としてのメッセージや感動が、いまもこうして僕らの人間関係を温めてくれているという事実を、自分がこんな風に体験する日がくるだなんて、夢にも思ったことはありません。ふいに訪れた感激に、今日は本当にしびれるような思いをしました。

On your mark... ready go!

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