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挨拶や礼は、社交性や愛想とは関係ない。単なる道具だからこそ、うまく使えたほうがいい

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たかが挨拶ぐらい、できなくてもいいんじゃない? - ihayato.書店

「ちゃんと挨拶しろ」みたいな説教って、うっとおしく感じます。で、なぜ嫌なのかを考えてみました。

オレが正しいからおまえは従うべきだ、という上から目線

まず思い付くのは、「挨拶ができない人間は劣っている」という絶対的な価値基準を、押しつけようとしている行為である点。挨拶は「できた方がベター」ですが、別に、できなくても仕事はできますし、生きていけます。

答え甲斐のあるお題が出たので、今日は「挨拶」について書きます。

   *

海外旅行でホテルに滞在していると、エレベーターや廊下ですれ違う人たち(もちろん、外国人の方々)にハローハローと頻繁に挨拶されます。僕ら夫婦はそれほど社交性豊かなほうではないので、なかば戸惑いながら、こわばった笑顔でがんばってハローハロー返すわけですが、これについて奥さんに聞かれたことがあります。

「アメリカ人ってなんであんなに陽気なんだろうね?」

いかにアメリカ人といえども誰もが陽気というわけじゃないはず。にも関わらず、誰もが陽気に挨拶をしてくるのはなぜだろう? もっと合理的に説明がつけられる理由があるはずだ。そう考えてみたところ、挨拶は身の安全を確認する道具だ、ということに思い至りました。

旅行先のホテルで、自分とは異質な人間がニコリともせずうろうろしていたら、そりゃあ気持ちが悪いし恐ろしい。特に、僕のようなヒゲ面で色黒の東洋人がサングラスをかけてむすっとしていたら、あらぬ疑いをかけられてもしょうがないという気もする。いやそれは体重120キロもある白人がスキンヘッドでタトゥーしていても同じなのでお互い様ですけどね。

そういう状況だと、お互いに声を掛け合って、「私は安全な人間ですよ」「あなたはどんな人ですか?」というのを確認しあう必要があります。陽気だから楽しくて笑顔を振りまいているわけでもないし、人付き合いが苦手だからといって避けられるものでもないですよね。

しかし、同質な人間ばかりが集まるコミュニティにおいては、身の安全を確認する道具としての挨拶はそれほど重要ではない、ということが言えると思います。日本人客しか訪れない温泉旅館では目礼を交わすくらいがちょうどいいし、仲のいい友だち同士ならむしろ省略してもいい(馬鹿丁寧にやるとむしろ他人行儀になる)。

また、会社や部活のような組織では、挨拶は人の上下関係を視覚化・固定化させる道具としての側面も強め、それはそれで便利に使われます。
もしかすると、これを嫌悪する人もいるのかもしれませんが、これだって捨てたもんじゃないんですよ。儒教では「礼」という体系として知識化・ツール化されているものです。

礼(れい)とは、さまざまな行事のなかで規定されている動作や言行、服装や道具などの総称。春秋戦国時代、儒家によって観念的な意味が付与され、人間関係を円滑にすすめ社会秩序(儒家にとっては身分制階級秩序)を維持するための道徳的な規範をも意味するようになった。

礼 - Wikipedia

道具を使う側になるか、使われる側になるか、それは本人の心がけ次第。
つまり挨拶や礼というのは、社交性や愛想とはまったく関係ないんです。エクセルのスキルのようなものだからこそ、できることならうまく使えたほうがいいんです。

自分に、年の離れた弟や子供がいたら、どんなときに「挨拶ぐらいはしっかりしろ」と言うでしょうか?

・異質な人間を一度にたくさん目の前にしたとき(転校してすぐ、入社してすぐ、あるいは何かの発表会)
・長幼の序に厳しい人を相手にしたとき(「子供は大人を敬い、大人は子供を慈しむ」という文法でコミュニケーションする人にルール改訂を申し出ても労ばかり多くて得がない)

とかでしょうか。
付け加えるなら、「人様からお金や物をいただいたとき」ですかね。その場合にはやはり、挨拶やお礼は欠かせないでしょう。

でも、失礼も礼のうちですからね。
差し伸べられた手を無視して花束で殴りかかるのも、MacBookAirのトラックパッドをいじりつづけるも、それはそれでひとつの「ご挨拶」ではあります。


陋巷に在り〈1〉儒の巻 (新潮文庫)陋巷に在り〈1〉儒の巻 (新潮文庫) [文庫]
著者:酒見 賢一
出版:新潮社
(1996-03-28)
「礼」を駆使するサイキック孔子伝。

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みなさん、イケダハヤトしてますか?
飽きてないですか?
僕はイケダハヤトしています。

でもいったい、イケダハヤトってなんだろう?

いちるさんは「イケダハヤトメソッド」を考案して実践されていましたが、僕は内なるイケダハヤトを発見するためのレシピを考えてみました。

イケダハヤトのレシピ

[全能感] × [孤立度] × [反射率]=イケダハヤト性


ひとつずつ説明していきます。

全能感
自分はそれに気付いている。自分にはそれができる。自分はそれを教えることができる。自分ならそれを広めることができる。これらを称して全能感と呼びます。この全能感は、裁量の大きさ・自由さから生まれます。組織のトップに立っている人や、フリーランスの人は、全能感が高まりがちです。

孤立度
それがどれだけ世間から共感を得られないか。あるいは、納得を得られないか。これを孤立度と呼びます。個性や独自性とも違って、周囲が尊重して手を差し伸べようにもそれができない状況を指します。反社会的な考えである場合や、不勉強な場合に孤立度が高まりがちです。

反射率
それがどれだけ自分に跳ね返ってくるか。これを反射率といいます。意図的に自分のことを棚にあげた場合は、自覚があるので反射率はそれほど高まりません。自分のことがよく把握できていない状況で、自分には当てはまらないだろうと確信している状況において、反射率は最高レベルまで高まります。

全能感を持って、共感を得られない考えを、反射率MAXで投じる。
僕の思うイケダハヤト性とは、そのように表現が可能そうです。


というわけで、自分が過去に書いたエントリから、以上に比較的あてはまるものを探してみました。


スタジオジブリのプロデューサー鈴木敏夫の『仕事道楽』は、組織のNo.2の参考になる
情報のタンス貯金はやめよう、信頼の口座(アカウント)を作ろう。あるいは、ソーシャレットについて
楽観的で、チームプレーを好み、好奇心があって、謙虚な「オープンリーダーシップ」について
仕事に感情を挟むのはいいことだ、という発想の転換
公文俊平氏の『情報社会のいま』を読んでいっぱいメモした
2010年代からは、かっこいいことが普通にかっこいい
小澤征爾「ディレクションという言葉がありますよね」
多種多様な趣味で島宇宙化が進む時代にあって、「学園」は唯一の共通体験である
評価経済社会においては、孤独であることが贅沢になる
ブログ精神論 - 自己達成予言を繰り返す知的生産のツール


これらを書いてから、だいたい1〜2年の時間が経っていますが、書いた内容にいま解説を求められると、ちょっと勘弁してくれよと思う部分があります。一部は、自分の血肉になりましたが、一部は、いっときの思いつきとして捨て去ってしまったものだからです。そのみっともなさと向き合うのが非常につらい。

そしてこんな記事がですよ、過去ログをちょっと振り返るとざくざく出てくるんですね。でも、イケダハヤトさんの記事よりも話題になるようなものはひとつもありません。それを思うにつけ、氏がどれだけのタレントを持っているか、思い知らされます。彼はみんなのシャドーであり、スターだと、あらためて思います。


しかし、こうしてブログを続けていくことで、自らのイケダハヤト性と向き合うのはつらくないか? とお思いになる方もあるかもしれません。この世の誰も、正解を当て続けられる預言者ではないので、ブログには常に恥がつきものです。
でも、それがいいんです。間違いを犯しながら成長し、それを記録しときに振り返りながら、有限の可能性しか持たない自分と長くつきあっていく。それが楽しいんです。

そうだ。
レシピにはひとつ、欠けていたものがありました。


自己愛


そうでしょ?
全能感と孤立度と反射率と無縁なエントリを書くことはできても、自己愛のないエントリは書くことができない。



みなさん、イケダハヤトしてますか?
僕はイケダハヤトです。

「やまもといちろう×イケダハヤト」の個人的メモ #ブログ論争

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2003年にBlog of the Yeah! で大賞を獲ったやまもといちろうさんと、2012年のBLOGOS AWARDで大賞を獲ったイケダハヤトさんが、ブログ論争から発展したトークイベントを開催して400人もの観客を集めたというのは、ブログ10周年というこのタイミングにおいて非常に象徴的な出来事だなとまずイベント開始前の段階で思いました。だからこれは、対決という体裁をとった、奥義の世代間継承の場なのだと、そんな文脈で理解しておったわけです。

その結果がどうなったかというと…

ざっくりいうと


・「イケダハヤトよ、愛を受け止めてくれ」
・「これは(やまもといちろうが自分を指して)、未来のおまえの姿だ」
・やまもといちろうのメッセージは届かず、なぜかアルファサンドバック爆誕

この要約もあわせてどうぞ。


期待していた、奥義の世代間継承という、実現すればきっと美しかったであろう現場は見れませんでした。期待が高すぎたのか、イベント終了直後はがっかり感が強かったです。

イベント終了後の感想





そもそもなぜこんな期待を抱いたかというと、それはやはり、やまもとさんの「愛」ゆえに、ということになろうかと思います。

やまもとさん側の文脈の振り返り


イケダハヤトさんへの批判の多くは、イケダさんの視点や論理構成が稚拙なことを挙げるものです。ただ、読まれているのもまた事実です。そして、彼のモノの 見方は一種の思想性が浮かんでいることもあれば、彼自身が書くように「社会への復讐」という独自の価値観の延長線上に見える自己顕示を求める自我がどーんと出ているときもあります。

私はこれはひとつの芸だと思っていて、彼自身が今後画期的に知性を磨いて爆発的に売れていくとは思わないけれども、安定して読まれる人になる可能性はあるよなあと思っているのです。

イケダハヤトさんは話題消費の過程にあります『人間迷路 42号』

やまもと:イケダハヤトさんにしても、彼は彼で3年、4年とやってきている中堅なわけです。ようやく固定の読み手が出て、みんなが注目し始めて、何というか「面白がられる」循環に入った。だから、これは1回、「品評の台にのせないといけない」と思って、先日からちょっかい出しているわけです(笑)。

これから上に行くか、そのままだめになってしまうかは分かりません。ただ、チャンスはもちろんあると思いますよ。みんなでよってたかって面白がった結果、どういう奥行きがでてくるのか。いわゆるリアクション芸でない形のイケダハヤトさんが出てきたら、それはそれで面白い論客の一角として残る可能性はありますよね。彼は彼で、おそらく今回の件をうまく利用してやろうと思っているはずですし。

ネット世界で新人をどうやって育てていくか

そして当日、やまもとさんがどんなプレゼンをしたかは、「やまもといちろう ×イケダハヤトの #ブログ論争 書き起こし」に記載がある通りです。イベント前の発言から、この当日まで、一貫して同じことを言っています。これを真正面から受けて、一度は破壊されたイケダハヤトさんが再び立ち上がってくるのを見たかったんですよね。そういう期待を持っていました。

しかし結果はご覧の通り。一貫しないことを一貫したイケダハヤトさんが、やまもとさんが構想したであろうブックとは違う、謎の着地点を発見し、それでイベントは終了しました。あそこで徳力さんが試合終了のゴングを鳴らさなければ、一貫しないことを一貫するイケダハヤトさんはさらにもっと違う結論に到達する可能性もあったと思いますよ。僕はそれが見たかったなあ……。

関連リンク


ダイレクト文藝マガジン 010号「初登場 内藤みか/山本一郎/安田理央」ダイレクト文藝マガジン 010号「初登場 内藤みか/山本一郎/安田理央」 [Kindle版]
著者:佐々木 大輔
出版:焚書刊行会
(2013-03-21)

山本一郎さんの「たかし」を巻頭に、『お客様の中にイケダハヤトはいらっしゃいませんか』(代々木犬助 )を収録した最新号。創作をやりたい、小説を書いてみたい、と常々言っておられるイケダハヤトさんの寄稿を首を長くして待っております。

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