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ストーリーとナラティブの対決 〜『僕らのネクロマンシー』刊行記念対談(後編)

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この記事は、2018年4月7日に下北沢のB&Bで開催された「僕らはいかにして、未来の降霊をなしとげるか 『僕らのネクロマンシー』(NUMABOOKS)刊行記念」の内容の一部を書き起こしたものです。(前編はこちら



佐々木大輔 @sasakill … 『僕らのネクロマンシー』著者/スマートニュース株式会社/元・LINE株式会社執行役員
ドミニク・チェン @dominickchen … 早稲田大学文学学術院・表象メディア論系准教授/NPOコモンスフィア理事/株式会社ディヴィデュアル共同創業者
遠藤 拓己(司会) @tkmendo … スマートニュース株式会社/株式会社ディヴィデュアル代表取締役



アナログレコードのような体験を与える本



佐々木 休憩時間中に何冊かお買い上げいただいたということで、本当にありがとうございます。それで、この本がなぜこんなに高額なのか説明しないと申し訳が立たないと思って、ちょっと中身じゃなくて外側の話をしようかなと思います。最初はまさかこんな値段とこんな装丁になるとは思ってなかったんですけど、それができたときの僕の気持ちを表す言葉がちょうど『遠野物語』のなかにありまして。

「いかに印刷が容易なればとて、こんな本を出版し自己の狭隘なる趣味をもちて他人に強ひんとするは、無作法の仕業なりといふ人あらん」

 もう完全にこういう気持ちだったんですね。この小説自体は、『遠野物語』とそこまで深く関わっているわけではないんです。遠野を舞台にしていて、僕がその遠野の生まれだということだけなんです。そこに、まずは350部だけ作りましょうというアイデアが出てきまして。というのは、遠野物語というのは初め、柳田國男が初版350部だけ作ったからなんですね。それならばと、その初版と全く同じ判型にして、レイアイトも初版と同じようにしようと。『遠野物語』は当時にしては珍しい洒落た装丁だったということなんですが、そしたら表紙にアクリルを使いたいというアイデアが出てきて、それならちょうどエレナ・トゥタッチコワさんというロシアの写真家の方が遠野に来て撮った写真があるからと話が進んでいき、やるからにはとことんやりましょうということで、最終的にこうなりました。

――あれよあれよと。

佐々木 誰も引き返そうと言わなくて(笑)。空前の単価になってしまったと。これしかもハンドクラフトで職人さんが手で作っているそうなんですね、表紙とか。

――手で綴じてるんだ。

佐々木 綴じは違うか。アクリルを貼るところですね。だから実際には、今の価格でも実は安いくらいなんですよね、それで言うと。安いと言ったってね、本としては高いんですけど、ディズニーランドに行くよりちょっと高いくらいだということで納得させてはいるんですが、そんな本になってしまいました。

ドミニク 確かに高い本ですが、もう結構順調に売れ続けていますよね。

佐々木 どんな方が買ってくださっているのか分からないですけど、ドミニクさんが紹介してくれたときにはすごく売れました。

ドミニク 本当ですか、それはよかった。この本に書かれている主題と、それがこうした物体感のある本になっているというテーマは実は呼応していますよね。どういうことかというと、作中に主人公が「アーキビアン」という職業をやっていたことが書かれてあるんですよね。
 恐らくこのアーキビアンというのは、僕の読みが外れている可能性もあるんだけど、Googleブックスというですね、Googleが世界中の本をスキャンするという事業をやっていまして、途中で集団訴訟が起って、特にヨーロッパ諸国がですね、「ヨーロッパの知の体系をアメリカの一私企業が全部スキャンしてデータを持つなんてもってのほかだ」と言って、すごいドンパチあったんですね。それで Google が一回引くという形に最終的になっちゃったんですけども、そのプロジェクトのスケールがすごいんです。1800年から2008年までに書かれたほとんど全ての英語の本をスキャンして、そのためのスキャンの機械も作って、それをネットで Googleの検索エンジンに引っかかるようにした。この結果、特定の語彙が19世紀から21世紀の間でどれだけ使われてきたのかということを簡単に調べることのできるGoogle N-Gram Viewerというサービスが作られたりもして、言語データを使って文化的な力学を定量的に測定するculturomics(culture+ecnomics)という領域も生まれた。
 それ自体はすごいテクノロジーだし、僕もそこでよく色々調査をしたりするんだけれども、それを彷彿とさせるような、その事業に携わっているような仕事をこの代々木犬助(ヨヨギケンスケ)がやっていたと。そこで面白いのが、主人公が自問自答するわけです。果たして本というのは、そこに書かれている文字情報だけのことなのかと。自分の仕事としてはそうなんだけれども、それに対して説明なく「くそったれ」と自嘲するような描写がすごく印象的です。だから、その葛藤というのは、この本そのものが自己言及的にその問いに対して「否」と答えているように思うんです。僕もこの本を手にして、このサイズがすごく身体にフィットして、どこにでも持ち運びたくなっちゃったんですよね。

佐々木 あっ、そうですか。逆に。重たいから置いておこう、ではなく?

ドミニク 家の中で持ち歩いてみたり、意味もなくキッチンに置いてみたりとか、すごく不思議な物質性があって、不思議なアフォーダンスがあって、色々な方法でインタラクションしたくなる。しかも本の中身にもそういう情報と純粋な情報と物質としての形式の違いみたいなことについて書かれているわけで、これは情報論として受け止めてみてもすごく面白いなと思って。

佐々木 アーキビアンというのは、主人公の職業なんですね。物語が始まったときにはその仕事を辞めているので、元アーキビアンということなんですけど、これは僕の造語です。一般的にはアーキビストという仕事があって、貴重な資料を正しい方法で保存していく専門的な仕事ですね。でもそれとはちょっと違って、野良でそういうデータを次々とネットワーク上にアップロードしていくことを生業にしている人間を指しているという設定なので、アーキビアンという特別な名前を付けました。そのなかにはもしかしたら Googleのようなところから委託を受けて古い本をデジタルデータにしてアップロードするという仕事もあるかも知れないし、プレス工場からCDを盗み出してリッピングしてmp3にするという悪いことをやってたかもしれないし、今は漫画村がすごく問題になっていることもありますけど、ああいうことやっている一味だったり、手足の一部だったかもしれない。とにかくそういうフィジカルなものに印刷されているあるいは録音されている情報をデジタルデータに変換してそれを生業にする。その中には汚いことも含まれている、というような仕事です。しかもそれは孫請けとか玄孫請けとかになっていて、罪悪感が薄れている状態になっている。という仕事の状態があると想像してください。まあ、あるんですけど(笑)。
 それに対して主人公が「くそったれ」と葛藤するわけです。それをやってる連中というのは、自分たちの職業に誇りを持つために「僕らがやっている仕事というのは情報の本質を抜き出す誇り高い仕事だ」というわけです。それによってみんながその情報にアクセスできて、民主的な美しい世界ができるんだと信じている。でもその情報を吸い取り終わった本みたいな物というのは、本質から抜け殻に変わってしまうと。なぜなら物がなくても、ネットワークがつながっていればスマートフォンなりタブレットなりどこからでも聞けるからですね。だから抜け殻となった本は処分する。そのことに一抹のやましさを感じる葛藤がチラッとでてくる。
 という内容を受けて発行人の内沼さんが多分思ったんでしょう。この本をもしコピーしたとしても絶対に捨てたくないと思えるような、物体としての存在感のある本を作ろうと。つまり物語の中では「中身こそが本質で、外側は抜け殻だ」と嘯くんだけれども、この本捨てられないでしょ、みたいなものをやろうぜという企画だったんですね。
 これね、多分お気付きになられた方はまだ一人もいないと思うんですけども、最終ページに面白いことが書いてあるんです。「落丁乱丁本でもお取替えできません」って。普通、お取り替えしますよね。でも350部しかないし、できないと。そして次が「本書の無断転写、転載、複写は禁じません」と書いている。つまり、この中の情報は、転載、転写好きにしてくれて構わないと。

ドミニク え! あっ、本当だ。これすごく大事なんだから、もうちょっと大きく書いてくださいよ(笑)

佐々木 ボケを本人が解説するという。ボケでもないか。これつまり何かと言うと、本の内容で嘯いていることの真逆をやるわけですね。この中身は、デジタルデータにしたかったらしてもいいし、誰か見たい人がいたらコピーして見せてあげていいよと。買っていただいた皆さんは、それをやってもいいということなんですね。ただ、それをしたからといって、この本を捨てられないでしょという。

――この本まだ触れてない方いらっしゃいますか? 皆さん、もし良かったら回して。

ドミニク そうですね、是非。

佐々木 内沼さんや本に関わってくださった皆さんがアドバイスをくれて、面白いねということでどんどんそういう方向になっていきました。

ドミニク じゃ、僕がアーキビアンになって、テキストをどんどんJPEGでアップしてもOKなんですか?

佐々木 OKですよ。 それでもいいと思えるのは、データで読むものと紙の本で読むものと、違った体験を与えられるなという自信があるからで。というのも、司会の遠藤さんにはゲラの段階でPDFをお送りしたんですよね。その後に完成版の本をお送りして。中身としてはほとんど変わらないはずなんですが、その違いについて良いことおっしゃってくださいましたよね。

――そうですね。全然感覚が違くて。年末にPDFでいただいて、それプリントアウトして実家で読んで新年にお話しして、改めてこれ2月でしたっけ。出たやつを一冊いただいて、それを今回また読んだんですけど、やっぱり本当に全然感覚が違って。僕はさらに面白いなと思うのは、350冊じゃないですか。佐々木さんは何千万人というユーザーがいるサービスの運営を中心的に関わってきたんですよ。これは僕はある種身内だからよく見てますけれども、現在も月に何百万人というユーザーがすごく濃く濃く使ってるサービスのプロダクトチームを引っ張っている方なんですよ。そういうマス向けのいつもいろんな議論をしているんですけれども、マス向けのサービスについて今日とほぼ変わらないようなレベルの話をしつつ。

佐々木 普段の会議と同じような感じですよね。

――そうそう。普段の会議でも割とこういう抽象度の高い話とかもしているんですけど、その佐々木さんがこういうものを350冊限定で出したというその事実が僕はすごく面白くて。且つやっぱり僕の萌ポイントの一つは佐々木さんという人がそういうお立場にいながらも、ちゃんと書き切ったということ。これすごく素晴らしい。僕の中では佐々木さんが今新しくスマートニュースを150人弱か、120〜130人いるんですけど、そこにこういう本を書き切れる人がプロダクトのリーダーとしてやってきたというのは 、すごいことだなと思って。

ドミニク 確かに。

――書き始められる人っていっぱいいるじゃないですか。僕も音楽を昔勉強してて、もの作る側にいたから気持ちわかるんですけど、書き始めるのって余裕なんですよね。多分みんなできる。でも書き終えるのって、ドミニクもいっぱい本書いたりしてるからアレだけど、本当に何万人に1人とかそういう世界。特に小説となると。

佐々木 そういえば僕、完成版になってまだ読んでない。恐ろしくてもう。

――それについて前に「なんでですか?」って聞いたら、「直したいところが出てくるかもしれない。」と。その気持ちすごく僕もわかるなと思いつつ、それでもやっぱり書き切って最後丸つけて終わりにした、それができることを証明したというのは僕は本当にすごいなと思って。これはこの場で僕は言いたい。今日はそれだけ言えればいいなと思って。

佐々木 ありがとうございます。二つのことを言っていいですか。

――はい。

佐々木 遠藤さんみたいに、ゲラの段階とこれを2回読んでもらった友達、何人かいるんですけど、その人が分かりやすい言い方をしていたのが、「mp3を聞くのとアナログレコードを聴くのとみたいな違いがあった」と。「同じものを読んでいるのに、読めるものが違った、読み込めるものが違った、自分の中で再生するものが違った」とおっしゃってくださって。それはわざわざ転載しても配ってもいいよと言いつつ、この形にこだわってこの形は350冊しかないとやった意味があったなと思って。

――そこで宿ってる何かが。



幻肢痛を治す方法と、悪路王に出会う方法



佐々木 あと書き切ることに関しては、でもね、頑張ったんですよ(笑)。例えばビジネスのことをビジネスの言葉で語れる人は山ほどいるわけですよね。誰でもそんなことはできるわけですよね。でも、その中に僕が満足のいく解説がほとんどないわけですよ。人工知能が普及した後にどういう事が起きるのかついて、説得力を持って語ってくれる人はわずかしか知らない。だから頑張らなきゃと思ってやったというのはあります。楽ではなかった。自分が書かなかったらこういうこと書く奴はいないと思って、毎日マントラのように唱えて頑張りました、それは。

――なるほど。あとさっきもちょろっと話が出た角度の違う話ですけど、ここは皆さん本が好きな方が来られていると思うので。我々の共通項の人物として鈴木健という人がいて、僕とドミニクがそもそも会社を作ったのもその鈴木健という人の後押しだったし、スマートニュースのCEOで僕らをスマートニュースに入れたのも鈴木健で、佐々木さんもスマートニュースに鈴木健との関わりで入ったとということが。すごく面白い本を書いているので。

佐々木 そうですね。『なめらかな社会とその敵』という本を書いていて。その本にも影響を受けてる。遠からず僕らみんな影響を受けてますよね。僕この本を書いた後に初めて鈴木健と会って、そのときにもやっぱり本の話で盛り上がったわけなんですよね。そのなかのひとつが『脳の中の幽霊』だったんです。
 この本では、この小説の重要なモチーフのひとつになっている「幻視」について深く説明されています。この幻視というのは、切断された足とか手とかが、無くなった後もまるであるかのように感じ続けてしまうという症状で、その何が問題かと言うと、無いはずの腕が痛いとか痒いとか感じるんですよね。手を伸ばして掻こうにも無いから掻けないんですよ。ずっと痛い、ずっと痒い、ずっと痛痒を感じるという幻視痛という現象がある。それを治す方法が実験によって発明されていくわけですけども、それが何かというと、例えば左腕をなくしてしまった人に対して、鏡を縦にして顔の正面に置くと。そうすると、右手が反対側に左手として映ると。その鏡に映っている右手を左手として脳に感じさせる。そうすると、それによって痛みがなくなったり痒みがなくなったりするというんですね。つまり左腕というものはなくなってしまったんだけれども、左手があったときの状態に脳の神経がマッピングされているので、ないのにあるから苦しむんですね。それを幻でもいいから見せてやると、解決する。そういう脳の特性の話が出てくるんです。
 その話がずっと心に残り続けていて、小説の冒頭の方でその話を出したんです。主人公は左腕を事故で失ったキャラクターという形で出てきますので、彼が幻視痛に苦しむんですね。それを書いたときに、この小説は最後まで書き切れるなと思ったんです。なぜかと言うと、幻の左腕に感じる幻の痛みというモチーフから始まって、それが、幻の心に感じる幻の痛みに展開した。つまり心というものがないにも関わらず、みんな心で苦しんでいる。精神的なことだとか友人関係とか社会との関係とか。つまり左腕がないのに左腕で苦しんでいるのと同じ状況だと。であれば、幻の左腕を見せてあげるのと同じように幻の心を見せてあげれば、その心の痛みが治るんじゃないかと。心なんてないんですよ、そもそも。でも、ないんだったら幻で結構だと閃いたわけですよ。じゃあその幻の心って何かというのが、主人公にとってはおばあちゃんだったりする。それが降霊する。タイトルに出てくるネクロマンシーですね。おばあちゃんというすでに肉体を失った存在が、ある方法によって蘇えるようなことが起こるわけですね。もう一方には、敵対するキャラクターとして藤原犬田老(フジワラケンタロウ)という人物がいて、彼はまた別のもので苦しんでいるわけですけども、彼が降霊させようとしている悪路王という歴史上の人物がいるわけですね。その悪路王になるべく興味持っていただけるように言うと、『もののけ姫』のアシタカのご先祖さんです。滅ぼされた東北の国の英雄だった人間ですね。

――宮沢賢治の『春と修羅』にも出てきますね。

佐々木 そうです。東北という、滅ぼされた側の英雄なんですけど、彼はそれを蘇らせようとしているわけですね。思惑の違う二人が、心を癒すために幻を見るみたいな構造を閃いたときに、あ、これ最後までいけそうだなと思いました。

――これ前半の最後の話とつながってきた感じがして、まさに。

ドミニク ようやく降霊術にいきましたね。残り20分の段階で。降霊術、霊を降ろすと書くのが普通ですけど、ネタバレ上等で言うと、後半に……。

佐々木 それは相当ネタバレ上等ですね。

――それは。

ドミニク え? ダメ?

佐々木 いや、でもいいですよ。全然いいと思います。



宮沢賢治と重々帝網(インドラの網)



ドミニク まあ後半というよりは、この本全体に関わることなんですけど、最後の方で「コウ」は降りるじゃなくて交わるという文字で書かれているんですよね。だから霊が交わる術と書いて「交霊術」というのが、最後の前のページに書いてあるんですけど(笑)。

――ハッとする。素晴らしい。

ドミニク そうそう。つまりここで締めくくられると言うか、ループ構造になるという話だと思うんですけど、それは死者の霊と存在を交わすという話だし、生者同士で霊を交わすという意味もあるし、さらには、人工知能というか自分のパートナーAIと交わるということが一つの大きなテーマとして串刺しになっていて、この読み替えは降霊術2.0というか、インターネット的な生物と非生物の交霊術。だからもはや従来のネクロマンシーじゃないですよね。現生に霊を降ろすというネクロマンシーの先の話になってる。

佐々木 本来はね、こっちの。

ドミニク うん、だから英語で考えるとなると、その「交わる霊」というのは新しく造語しないといけないと思うんですけどね。この話とさっきから出ている「心」なんてものはどこにも無いという話がすごく密接に関係していて、前書きと後書きによって結論が示される。でもここで指し示されているのは本当に何なのか。

佐々木 心というと手垢がついて聞こえるというか、ずばり手垢そのものですよね。なので序文では「本当に思っていること」と言い換えたんです。でも「心」のことです、それは。

ドミニク はい。さっきから話に出ている鈴木健さんと昔から仏教思想の話をしていてよく出てくるのが「縁起」なんですね。縁起が良い悪いというあの言葉は、サンスクリット語にまで語源をさかのぼると、世の中のすべての現象がお互いに依存し合いながら生起する、という意味なんですね。。それを短く「縁起」という風に中国語の漢字が当てはめられている。
 この縁起思想というのは、空海や最澄が唐からインポートした真言密教や天台密教の中で「重々帝網」という概念として可視化されているんですね。ここの帝とは浅草寺の帝釈天、ヒンズーでいうところのインドラのこと。インドラの人の宮殿に行くと、巨大な網がかかっている。その網というのは無数の玉が結ばれている、編み物という意味でのnet-workなんですけど、その玉は自分以外の全ての存在を反射している。つまりそれぞれが自己でありながら、他の全ての存在を自分の姿に映している。だから、全存在が同時に、共依存的に生起して、世界が成立している。
 共依存的というと、現代風なニュアンスだとちょっと精神病理的なイメージがするんだけど、そうではなくて、今僕がここで話しているというのは、佐々木さん遠藤さん会場の皆さんが同時に存在し、僕を観測しているから初めて僕は僕でいられると言う、そういうものの考え方ですよね。この本で描かれている「交霊術」というのは、だから縁起思想の一形態として構想できるのではないかと思うわけです。お互いに霊性を交えることによって生成され、認識されるネットワーク。現代のITやテクノサイエンス主義がこのような交霊術や縁起思想を置き去りにしたことの背景には、全てを分類してきたということがあるわけですよね。アリストテレスの範疇論以降、世界をカテゴリーに分類するというのは、ここまで行けばもう交われないと言うか明確にAとBは違うということを「デモンストレート」する術だったわけです。でも、文化も含めて、実世界はそこまで綺麗に、リニアーに区切れるものではない。たとえばこういう風に3人で話したり、10人で話したりしているとよく起こる感覚なんですけど、話した後であることを誰が言ったのかよく覚えていないとかありますよね。

佐々木 ありますね。

ドミニク 本当は違う人が言ったものを、自分の中で無意識的に受け止めているうちに自分のものになってしまう。我々の主観意識を前提にして本当に起こっていることを考えれば、「交霊術」の方が実はリアルなんですよね。そのリアリティを上手く共有する術を僕たちは社会文化として育んで来なかっただけだと思うんです。そうしたら交霊術のためのWebサービスとかIT企業とかあっても全然いいわけですよね。

佐々木 いや、僕なんか今、インドラの網、帝釈天の網の話が出て、感激してます。僕その話を16、7歳の時に悟りまして(笑)。以来ずっと、そういう見方で世界を捉えているんです。

ドミニク 悟るの早い(笑)

佐々木 つまり無数に隣り合う輪郭というか、網のような状態で且つそこに玉があって、こういう構造になっているからドームのような構造になっているんで、その玉が他の全部の玉を映して、且つ無数の隣り合う輪郭だ。みたいなことを思ったわけですね。その後になって宮沢賢治がインドラの網の話を書いているのを読んで、それでより明確に言葉付けをされたわけですけど、すごくそれがよくわかったわけですよ。今回もその話が相当ベースにそれを入れ込んでいるわけです、仏教的な考え方を。
 でもこれ遠野を舞台にしていることもあって、なるべく宮沢賢治臭を隠して書いたつもりだったんですよ。ところが何度も直していくうちに、宮沢賢治的に複雑な漢字に訳のわからないカタカナを当てるみたいな、ちょっと中二心がざわつく方向にどんどん手を入れていってしまい、最後には『春と修羅』の「序」にある「透明な幽霊」という言葉まで出した。これぐらいはもう使わせてもらおうみたいな感じで。それでご指摘の通り、半分宮沢賢治です、実は。

ドミニク やったー(笑)。

佐々木 だから本当にすごい。『インドラの網』の話が出てきたのは。

ドミニク この『インドラの網』というのはすごく短いテキストなんですけど、読まれた方もいらっしゃると思いますが、夢を描写しているような本当に美しい文章ですよね。奇しくも2ヶ月ぐらい前に僕、『インドラの網』の書評を書いたんですね。

佐々木 そんな仕事もしてるんですか!

ドミニク はい、日本近代文学を黙々と書評し続けるということをやってます。主人公が、賢治と思わしき人が、夏の夜空を眺めながら歩いていて、段々と夢幻の世界にトリップしていく。色彩がサイケデリックで、ちょっと薬物中毒者の視点のような感じがするんですけども、その描写が本当にすごく美しい。「インドラの網」と「風の太鼓」とあと「青孔雀」という三つの要素が出て来る。色と音の描写がすごく知覚的なんですよね。いろんな音が聞こえていろんな色が見えるという。そして、その知覚が矛盾に満ちているのが面白い。たとえば、『その孔雀は確かに空にはおりました。けれども少しも見えなかったのです。確かに鳴いておりました。けれども少しも聞こえなかったんです』というように。でも、そういう知覚があるというのは、夢の中の体験とか、遠い記憶の中の体験を思い起こすときに、合理的には説明できないんだけれども、そうとしか言いようのない、まさに二項対立じゃなくて二項同体的な体験というのがあることは誰でも知ってますね。それを遠ざけてしまうのがローマ=キリスト教会体制から近代のテクノサイエンス主義に至るまでに起きてきたことで、いわば「距離」が遠くなってしまった。そこに一気に行こうとすると、今度は非科学的だったりオカルト的なボキャブラリーにならざるを得なかったりする。でも僕は結構楽観視しているのが、科学はどんどん発達はもちろん続いているわけで、そうなってくるとこういう不思議な現象というものを上手く記述する言葉というのも出てくるから、非常に冷静に今まで語れなかったことを語れるようになることが、どんどん可能になってくるんじゃないか。だから、モンストレーション、怪物が生まれることと、デモンストレーション、怪物を解体することを対立させるのではなくて、二項同体として捉えていく術が交霊術だと思うんです。

佐々木 デモンストレーション、マジでいい言葉ですね。

ドミニク でしょ?(笑)

佐々木 すごくいい。

ドミニク 高橋源一郎さんが怪物を生み出さなきゃいけないといったという話は、まさに妖怪でありモンスターであり怪物のことだと思うんですよね。怪物を生むというか育てるということをしないと種として進化しないわけじゃないですか。全てコントロール化にある子どもたちを作り続けていても、それは生命的な進化という意味では一切進みも下がりもしない、変容しないということなので。



ナラティブとストーリーの対決



佐々木 わかりやすさに抗いたいという気持ちが、これはもう仕事をしている上でね、ありまして。わかりやすいものにだまされるじゃないですか。だまされちゃう。フェイクニュースもそうだし、単純な話に人はだまされる、誘導されるということがあると思っていて。お話のなかで主人公と敵対するような人物が出てくるんですけども、彼らが何をめぐって争っているかというと「物語」なんですね。
 敵対する人物は、東北にもう一つの国を作ろうと言うんです。例えば今アメリカでは、トランプ大統領を契機に一つの国が二つに分かれるような状態になっていると。同じように、目に見えずらいだけで、日本でも国が二つに分かれるような状態が起こりつつあるんじゃないかと。経済状況や情報技術の浸透で中間的メディアがなくなって、わかりやすい話に誘導されやすい状態が生まれていて、実は二つの国が出来つつあると。そのときに、東北は征服されてきた歴史があるわけですから、古代の反逆のシンボルだった英雄を復活させて国作りをしようというやつが出てくるわけですね。それってお話としてものすごくわかりやすい話なわけですよ。英雄を担ぎ出してその国を作ろう。明治新政府が国作りしたときと同じような理屈で東北に国を作ろうとするわけです。
 それに対して、敵対する人物は主人公に対して「お前の物語る能力が必要だ」というようなことを言うんですね。お前のストーリーテリング能力が必要だから、僕の陣営に入ってくれないかって誘いです。でもそれに「ノー」と言うわけですよね。なぜノーなのか。主人公はそれについて言語化できないまま話が終わるわけですけど、これを問いかけたまま終わるというのがすごく大事で、この本で一番と言っていいくらい大事。今現実に世界中で起こっている国が二つに分かれるということに対して、ストーリーでそれを推し進めようとしている人間と、ナラティブでそれに抗おうとしている人間の対立なんですね。日本語ではどちらも「物語」と書くしかないんですけれども、ストーリーとナラティブ、別物じゃないですか。与えられるものと、自分が感じているものを語るものと。

ドミニク 主観性ですね。

佐々木 そう。主観性による語りというのは違う。主観的なものこそ今すごく大事で、曖昧で言葉が与えられなくて複雑で、主人公はそういう物を大事にしている。だから相手には与しないと。お前のわかりやすい話には乗りたくないんだと思ってそうなるわけですけども。
 ドミニクさんがおっしゃられる言語化しえない曖昧なものの中に、いろんなものがあるんじゃないですか。言語化できないが故に扱いかねるんだけども、でもそっちに身を投じて、そこで話が終わる。言葉にできないまま「ごめん、言葉にできない」「うまく言えるようになったらまた連絡するよ」という感じで言語化を放棄してしまうわけですね。

ドミニク だからこれ続編がめちゃくちゃ楽しみ。書かないと。

佐々木 言語化できないというところまで行き着いちゃったんで、もう書けないと。なんせ言語化できないんだから、俺もこれ以上書けないじゃんって。

ドミニク 士郎正宗の 『攻殻機動隊2.0』みたいなね。あれもそういう思わせぶりな終わり方で、いまだに続編が諦めきれない(笑)。

佐々木 そうそうそうそう。

ドミニク 「あ、見えた」みたいなことだけ書いてあって、もう17年以上書いてないんですよね、続きをね。佐々木さんはぜひ続きを(笑)

佐々木 でもまあ、いずれ。趣味なんでいつかは書くんですけど、お話の上ではそうなってるということです。

ドミニク めちゃくちゃ期待しちゃいますよ。この敵役のケンタロウという人物のモデルがちょっと誰か気になるけど、彼と主人公の新しい友情はどうなるのか、とか。

佐々木 あ、これ僕です。

ドミニク あっ! え、ケンタロウが? そっちが自分?

佐々木 そっちが僕です。

ドミニク 主人公のケンスケは違うんですね。

佐々木 僕の妻は、ケンタロウのほうが僕だと言ってますね。だからきっとそうなんじゃないですかね。

ドミニク なんか「俺は全部知ってるし、想定範囲内だぞ」みたいな、ちょっといやらしい人ですよね(笑)

佐々木 でも会社の中での僕は、山の中で会った村上犬蔵(ムラカミケンゾウ)という人ですかね。どうだろう。

ドミニク あっちの方なんですね。

佐々木 会社の中での僕はあれですね。

ドミニク まさにディヴィデュアルですね。



ビジネスマンこそがこの小説を読むべきだと思うわけ



ドミニク このケンタロウという人が「俺がやったことを敢えて言えばビジネスだ」と言って、主人公を口説くわけですよね。

佐々木 そうですね。

ドミニク それに対して「くそったれ」みたいな心情でそれをぶち壊すんですね、主人公が。で、「お前は一体何をするんだ」と言った一番最後に、「自分は自分なりのビジネスをやる」と。だからビジネスって面白いって話で。

佐々木 (笑)

ドミニク あ、全部言っちゃった(笑)

佐々木 全然いいですよ。全然いいと思います。

ドミニク そのビジネスっていうものは、つまりケンタロウのビジネスではないわけですよね?

佐々木 そうです。

ドミニク ケンタロウのビジネスというのは、恐らく僕の勝手な理解だイーロン・マスクのビジネスであり、マーク・ザッカーバーグのビジネスであり、孫正義のビジネスであり。

佐々木 そう、そっちの。ストーリーのビジネスです。

ドミニク そうですよね。でも、この主人公の代々木犬助が、遠野から東京に戻って「俺はビジネスやるんだ」と最後決意をするんですが、そこが読み手に「自分だったら一体何をするだろう」と想像させて、アクションにつなげさせるような呼び水というか、問いかけなのかなと思って、すごくハッとさせられるわけですよね。だからビジネスマンこそが、この小説を読むべきだと思うわけです。

佐々木 物語という言葉を使いつつ、「ストーリー」と「ナラティブ」が文脈が喧嘩しているわけですが、同じようにビジネスという言葉にも、多義的な意味を交錯させているんですよね。

ドミニク ビジネスって考えてみるとすごい奥深い言葉で、忙しくあることですよね。ビジー・ネス、だから。「Are you busy?」「Yes.」みたいな話なわけですよね。やっぱりビジーでいるって人間としてめちゃくちゃ大事で、ビジーじゃなくなっちゃったらそれこそさっき言ってた「悟り」じゃないけども、やることないわけですよね。でも何かしらビジーであるということは、社会と関わり続けるということだと思うし。
 突然ですが、僕がこの小説で一番好きな一節をちょっと読んでもいいですか?

「記憶は私たちの外部にはある。キーボードの配列を紙に書き起こせと言われてもできないのに、指を乗せたら自然とタイピングができる。どうして? 外部とのつながりがあれば私たちはそれを通じて思い出すのよ。まるで全てを元から知っていたかのように。つながりが記憶を生み、つながりが意味を与え、つながりが常に今を生きようとしていく。そんなふうにして生きているの。」

 これこそが「交霊術」の端的な定義なのかなと。つまり、これって結構重要な指摘で、一種の悟りの宣言に近いとすら思うんですけど。これは自分の使い魔と呼ばれている「レディ」との対話なんですけどね。これを人工知能に言われるって。

佐々木 そんな人工知能ねえよって(笑)。

ドミニク いや、すごい良いこと言ってますよね。

佐々木 つまりクラウド上にあるデータが降りてくることを降霊術と言っていたときから、マシーン同士が相互に記憶を保管しあって、何かをきっかけに全部思い出す。交わる方の交霊術に変わっていく、その最後のページのところの文章なんですよね。それってどういうこと? というのを、機械の左手が解説してくれるところで。でもこれって皆さん実際にそうですよね。キーボードの配列は誰も書けないのに、触った瞬間にキーボードを扱える。つまり、そういうようなことが、いろんな人と物の間で起こるんだと。実は記憶というのは外部にあるというものの例えの一つですよね。

ドミニク 本当。だから身体というものが自分たちがもしかして心と思っているもの以上に、自分であるかという。

佐々木 「心どこ?」と言われたときに、もしかしたらこの辺全部と空間を指すようなね。

ドミニク 指の先の心もあるし、足の指の先の心はあるし、髪の毛の先にも心はあるかも知れない。
 だからこの一文に対して、どういう「ビジネス」を僕たちはしていくかということが、ITをやっている人じゃない人こそ形を与えられるかも知れないし、ITの中に新しい意味を作ろうと考えている人たちには、この問いかけが一つの灯として機能するかもしれない。

――ITはテクノロジーだからね。そのテクノロジーを使って。

佐々木 わくわくしますよね。



(終わり。前編はこちら


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脱中央集権的な心、分散する心 〜『僕らのネクロマンシー』刊行記念対談(前編)

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この記事は、2018年4月7日に下北沢のB&Bで開催された「僕らはいかにして、未来の降霊をなしとげるか 『僕らのネクロマンシー』(NUMABOOKS)刊行記念」の内容の一部を書き起こしたものです。



佐々木大輔 @sasakill … 『僕らのネクロマンシー』著者/スマートニュース株式会社/元・LINE株式会社執行役員
ドミニク・チェン @dominickchen … 早稲田大学文学学術院・表象メディア論系准教授/NPOコモンスフィア理事/株式会社ディヴィデュアル共同創業者
遠藤拓己(司会) @tkmendo … スマートニュース株式会社/株式会社ディヴィデュアル代表取締役



僕たちがテクノロジーと正常な関係を結ぶために



――まず出だしとして、この本を出された経緯やお気持ちを佐々木さんに伺いたいと思います。

佐々木大輔(以下、佐々木) 本当に不親切な本で申し訳ないと思ってるんです。どういう本なのかほとんど情報がないんですよね。帯もないし、表紙にも背にも裏表紙にも文字が一切載っていないという。その代わりにいろいろ語りたい気持ちはあるんですが、どうも簡潔に言えなくて。だからこそわざわざ1年3カ月もかけてこんなもの書いてたわけなんで、うまく言葉が出てこないんです。

――では、たぶんドミニクがサマライズの天才なんで、上手いこと言ってくれると思います。

ドミニク・チェン(以下、ドミニク) いえいえ、俯瞰してうまいこと話すというよりは、この小説を読んで感じたことをウォークスルーして話していければと思います。とにかく、この本を読んでいて「わかる!わかる!」という感じが止まらなかったですね。(自分の本から飛び出た)このたくさんの付箋はやらせじゃくて本当に貼ってあるものです。読んでいくなかで「めちゃわかる、そこ」という箇所がたくさんあって。しかもITと降霊術が一緒になっていることがポイントで、こんな面白い話書いてる人、他に知らないですよ。
 でも同時に、最近僕のまわりだけかも知れないですが、言葉にできないものというか、「神」的な何かにどハマりしてる人たちが増えている実感があります。例えば、市原えつこさんというアーティストがいまして、現代のデジタルシャーマンを名乗ってる方がいるんですね。彼女は早稲田大学を卒業した後にYahoo! Japanに入って、ユーザーインターフェイスのデザインチームにいて、その間にソフトバンクのペッパーのなかに死んだ人の魂を吹き込むというような作品(『デジタル・シャーマン・プロジェクト』)を作っているんですね。
 あとは僕より年上で言うと、安田登さんという能楽師の先生がいまして、彼は『イナンナの冥界下り』という世界最古の神話を能舞台的に表現するということをもう10年以上やっていいます。バーチャルリアリティなどの現代のテクノロジーと、元々人間が古来からずっとやってきた霊と交わるという、この二つのテーマにいろんな人が反応しています。その流れの最新作が、佐々木さんのこの本だなと思っていて。
 さっき「わかる、わかる」と言ったのは、やっぱり佐々木さんはITのことを熟知しているプロフェッショナルなんですよね。そういう人じゃないと書けない情報技術のリアリティみたいなものがあるわけですよ。でも、なかなかこれ難しくて。僕もITに関する解説書みたいなことをいろいろ書いたりしてるんですけど、分かりやすくしようとするとその分リアリティが薄くなっちゃう部分がある。だけどこれ小説なんで、一切遠慮してない。分からない人はちょっと置いていかれる部分がもしかしたら少しあるかもしれないけども、それが物語というものにラッピングされていて、全てを理解しなくてもいいから、そういうリアリティがコンピューターの世界の中にあるんだということが、ひしひしと伝わってくる。

佐々木 これを書き始めたのは今からすると2年前なんですけど、今年起こってることをだいぶ言い当てられてるなと思って。GoogleがAutoML Visionという機械学習のプラットフォームの提供を開始したり、Facebookの個人情報流出が広告に悪用された事件とか。そういうことが絶対に起こるなとは思っていて、それを物語のかたちでちゃんと分かりやすく書きたいなと思ったので、間違ってなくて良かったなと。いや、良かったと言っちゃいけない話もありますが。

ドミニク 確かにそういう側面もあって、すごくドキッとさせられるんですよね。この小説の内容も面白いんですけど、その文脈として佐々木さんみたいなLINEにいて今スマートニュースにいる人が、小説でしか書けないリアリティを、現役で書いているということの意味というのは、僕はすごく応援された気がしました。僕がいろんな本を書いて伝えたかったこととか、勝手にこのなかで再発見させていただいたというか。こういう価値の話ができるできるような環境が整って初めて、人工知能に代表されるテクノロジーと僕たちという存在が、正常な関係を結べるようになると思うんですよね。



自分をバラバラにして、そのかけらで怪物を作る



――まだ読まれていない方が多いと思うので概略を。この話を、今ドミニクがデジタルの様々な話が入っている小説だと紹介しました。それだけ聞くとすごいSFっぽいものをイメージされると思うんですけど、ある種すごく土着的な内容なんです。佐々木さん自身が遠野の出身で、実はこの話は『遠野物語』への応答でもあるんです。最初に読んだとき土の香りというか、そもそも主人公があるきっかけで遠野に帰り、農夫をするんですね。いわゆるSFというのと違って、すごく土の匂いのする、故郷を感じる。佐々木さん自身が遠野愛を深くお持ちで。

ドミニク この作品はSFという紹介をすると、ちょっと違うなという感じがしますね。あまりこういう野暮ったい質問はしたくないんですけれども、少し自伝的な感じもしたのですが、いかがですか?今までの佐々木さんというよりは、未来にありえたかもしれない佐々木さんみたいなものを投影しながら書いているところもあり、もちろんそうじゃないところでほとんど構成されているけど、だからこそ自分を取り戻すみたいなことが、これを書きながらできたのかなってちょっと想像したんですけど。

佐々木 でも本当にあったことは書いてないんですよね。だから不思議で。高橋源一郎さんの著書に『デビュー作を書くための超「小説」教室』というのがあるんですが、それにいいことが書いてあって。自分をバラバラにして、そのバラバラになったかけらで怪物を作ってしまうと。小説を書くってのはそういうことなんだと。それを分身と言わないんですよね、怪物と表現してました。自分の破片を繋ぎ合わせて怪物を作ると。そうして恐るべきものができたときには、それは良いものなんだということなんですけど。だからは、ちょうど頑張って怪物を作りましたという感じ。破片は全部僕のものだけど、できたものは実際の僕じゃない。不思議な感じですよね。

ドミニク 途中からキャラが走るというか、自律走行するみたいな感じで物語の後半とかはそういうふうに出来上がっていったんですか。結構最初の方でプロットを考えて、そこにはめ込んでいった?

佐々木 プロットはなくて、全部その場の思いつきで書いているんです。でもそれもちょっと語弊がありますね。いわゆる小説とか脚本を書くためのプロットというのはないんですけれど、 僕は『遠野物語』を通じて民話とか神話の研究にすごく興味があったので、昔話の類型というのはよく知っていたんです。ウラジミール・プロップの『昔話の構造31の機能分類』というのがあるんですけど、それは頭に入っていて使いました。行きて帰りし物語みたいな。主人公は何かを失って元ある所からどこか遠いところに行って、それを取り戻して戻ってくる。ただ戻ってきて全き者になった自分は過去の自分ではない、みたいな。シンプルに言うとそういうような話なんですけど、そこは外さないように意識してました。

ドミニク それがアーキタイプになるわけですね。

佐々木 そうです。そのアーキタイプは常に頭に置いて書きました。

ドミニク そう言われてみると、「祖母の葬儀が終わり〜」という冒頭の一文から、後半でデジタル世界でのおばあさんがゴニョゴニョなって、そこで主人公が自分の道を見つけるみたいなね、そこから一気にクライマックスがバァーっとくるところまで首尾一貫してるんですよね。このおばあさんの死というものに向き合うところから始まり、最後は同じおばあさんの幻影の死によって、ようやく自分を取り戻す。そこを全然プロットしてないっていうのは驚きです。

佐々木 何本も小説を書いてきたわけじゃないですけど、そこが一番楽しいときですよね。何の予定も立てないで即興で書いているのに、後半の方は収まるべきものが収まる場所に収まっていく。本当楽しいというか、そこに行くまでが結構苦しいんですけど、それが楽しくて書いている感じですね。




グレイという過去の妖怪、トランプという現代の妖怪



佐々木 この小説のなかに●●●や●●●●や●●●●●のような人が出てきたのってお気付きですか? 結構、気付かれないように書いたんですけど。

ドミニク 言っちゃっていいんですか(笑)

佐々木 つまりなんの話かというと、みなさんグレイという宇宙人はご存知ですよね。アーモンド型の瞳をしていて、グレーの肌で、頭が大きくて体が小っちゃくて、80年代から90年代にテレビなんかによく出てきていたやつです。それが小説のなかで、「あいつ今どこで何をしているんだろう、最近見かけないよね」って話が出てくるんです。すると主人公が「あいつは人気のなくなった妖怪なんだよ」って説明をするんですね。その当時すごく怖がられていた。でも今は誰も怖くない。そういう落ちぶれた妖怪。あの当時は、コンピューターは普及しかけていたけどインターネットはまだ普及していなかった。そして詰め込み教育なんかが問題になるような時代だった。暗記ものの勉強が重要視されて、それについてこれないと受験勉強から振り落とされて、ちゃんとした大人になれないよ、みたいなプレッシャーがあった。そういう時代に、未来の人類の姿として想像されていたのは、身体が退化して頭ばかり大きくなった、ヒョロっちくて青白い肌をした人間なんですね。つまり宇宙人グレイというのは、その延長としてある。未来の人類よりもさらに進んだテクノロジーを持った宇宙人はああいう見た目をしていると。つまり不安や恐怖心が、グレイというものをウケさせた。だから妖怪なんだ。と、そういう話を主人公はするんです。すると「じゃあグレイに人気がなくなったのは分かったと。じゃあ現代の妖怪ってなんなんだ?」みたいな話に広がる。そして、そこから先はきわどい冗談になったのでみんなで笑って解散した、みたいなエピソードがあるんですけど、それっていうのが●●●や●●●●や●●●●●のような人のことです。でもわかりやすいのはトランプ大統領ですかね。

ドミニク 現代の妖怪(笑)

佐々木 自分の頭の中に記憶や思考力を保っておく必要がない。外にどんどん預ければ良い。そういう考えの最果てというか。暗記するよりググればいい、なんてことを言いますが、事態はもうちょっと進んでいて、ソーシャルネットワークでつながっている先の人達に考えさせる。自分がそのことに詳しくなくても、無知をさらけ出すことで誰かが叩いたり燃やしたりしてくれる。でもそのことを通じて成長したり、結果的に事態がうまく進んだりする。つまり記憶を外部化するだけじゃなくて、思考さえも外部化している状態というのがあって、それは一見、あまりよい状態に見えなかったりする。でも実は、現状にもっとも最適化された状態でもある。そういう人たちというのは、グレイとの対比で言うと、頭は小さくていいし、肌は小麦色に焼けている方がいいし、UFOの中よりもビーチにいた方がいい。

ドミニク それね、僕、付箋貼ってあります。「僕は想像した。小麦色に焼けた健康的な身体に空っぽの脳みそを乗っけた存在が、何千万人という知性に同時に接続されて、その注目とリソースを独占して頂点に君臨している様を。そこに不安と恐怖はあるか。あるような気がする。ならばそれは妖怪ではないか」これ読んだとき、TwitterなどのSNSでつながってることかなぁと思ったけど、具体的になんのことかわからなかったんですが、そういうことか。

佐々木 名前を出すときわどい冗談になっちゃいますが、そういう人ってたくさん思いつきますよね。

ドミニク いますよね。それは現代社会批評としてもよくわかります。つまり、僕たちはネットで常に脊髄反射をしているわけですよね。だから、この物語は、インターネットが見果てた夢をもう一度、別の形で見るための書でもあって。メインストリームでのIT産業というのは今、改めて引いて見てみると、やっぱり過剰さみたいなものが根底にあって。特にアメリカではそのバックラッシュがすごく可視化されてきてるけど、日本はまだそこまで議論がされていない。フィルターバブルやエコーチェンバーとか、つまりみんな意見が分かれてしまって、インターネットって本当はコミュニケーションを広く深くしていくためのものだったはずが、なんか蓋開けてみたら、みんなインスタ映えすることとかわかりやすいことにした興味を持っていないように見えてしまう状態になっていて、果たしてそれってどうなの? ということをみんなどこかで思っているんだけれど、それを話すボキャブラリーというのがなかなか共有できない。社会的に構築しづらいというところがあって。そういう意味でこの本を読んで勇気づけられるもう一つの側面というのは、現状肯定でも悲観論でもない中道の道を想像する道筋が、これを読んでいるとなんとなく見えてくる。

佐々木 嬉しいこと言いますね。

ドミニク いや、本当にそうだと思いますよ。



脱中央集権的な心、分散する心



佐々木 ドミニクさんに初めてお会いした後に、2015年に書かれた 『電脳のレリギオ』を読んだんですけど、なんか折り目だらけになってしまって。今日はそれに適したところを抜いてきました。フィルターバブルとかエコーチェンバーのような情報技術の弊害によって、自分の興味あることしか知らない、自分の興味の殻を出ていけないという、そういうマイナス面がすごく目立ってきていますよね。その状況のなかでどうするか 、二つの選択肢が考えられるでしょうと書いてあって。一つ目は、情報技術から遠ざかって生きる。二つ目は、情報技術の発展を追いかけ続ける。でもそれについて、今世の中で好まれている選択肢ってどちらかというとデタッチする方。デジタルデトックスしましょうとか、ソーシャルデトックスしましょうとか、そこから離れること。「Delete Facebook」って最も分かりやすいメッセージだと思うんですけれど、その通りなんじゃないか、いやでもそうじゃないんじゃないか、という煩悶をこの本を通じて書いているんですね。それは主人公の置かれている状況でそれを書いているんです。主人公は一旦田舎に帰って、おばあちゃんの葬式に出て、 東京での忙しいを仕事嫌だなあと思って辞めちゃう。その時にいろんな仕事関係とか自分の持っているネットワーク機器をインターネットから非接続にしちゃうと。スタンドアローンにしちゃう。デタッチしちゃうというところからスタートするんだけども、最後は最もインターネット的なつながり、過剰なつながりの中に再び戻って行くわけですね、自ら選択して。なのでまさにおっしゃっていたように、どっちでもなく、でも情報技術を信じたさらに向こう側の世界に行こうとする。これってまだ誰も見たことのない世界だと思うんですね。そこに行こうとしているところで言葉を失って終わるんです。なので今おっしゃってもらった、現状肯定でも悲観論でもないというのを読み取っていただいたのはすごく嬉しかったです。

ドミニク 降霊術とかネクロマンシーとかシャーマンとか冥界下りとか、さっき冒頭で言ったようなこと、霊的なものへの関心が一方で高まっているという状態というのは、そういうことを考えている人たち、アーティストであったりデザイナーであったり研究者であったりいろんな人がそこに含まれているんだけれども、僕も含めてそういう人たちは、まだ言語化されていないけれど、上手く共有できる新しい道の価値みたいなものを探そうとしているのだと思うんですよね。そこでデジタルデトックスとかコンピューターを捨てて山にこもろうとか、逆にテクノロジーを信じよ! みたいなテクノロジー礼賛宗教みたいなのが出てくる。でもいわゆる原理主義なんですよね、どっちも。原理主義にいかに走らずに、自分たちだけでなく社会として見たい夢をどう実現するかということが大事。こういうふうに言葉にしてみると非常に普通なんだけれども、テクノロジーと霊性に興味のある人たちがやってることは、メインストリームのあり方からするとちょっと変だったり怪しかったり見えるだけなのかなと。
 オカルトに陥らずに、いかにこの霊的なものについて語るかということに僕はずっと興味があって。佐々木さんが紹介してくれた本のタイトルになっている「レリギオ」というのは、実はラテン語の言葉で「レリジオン」つまり「宗教」の言葉の語源なんですね。これはすごく面白くて、僕はフランスの学校でずっと育っていたんですけれども、フランスの学校は今はね、フランス文科省の制度が変わって必修じゃなくなったんだけど、僕の時代はラテン語が必須だったんですね。小学3年生とかでね。そうするとラテン語源の言葉の意味が字面だけ見るとだいたい分かったり推測できたりするようになるんです。ラテン語はパーツでできてて、レリギオ(religio)というのはつまり再び「リギオ」する、つなげるという意味なんですね。「関節」って英語で「リガチャー」というんですけど、どれも同じ語源。伊藤穰一さんに、僕と遠藤さんの会社で作っていた「リグレト」というサービスを見せたら「Religion 2.0だね」という話になって、実際にたくさんのユーザーの心の表れに運営する過程で触れた経験から、改めてITを作ることと宗教性について考えていたら、レリギオという言葉と向き合ううちに精神的な構成要素をつなげる関節のイメージが生まれたんですね。自分の心がいろんな要素によって構成されていて、それを繋ぎ止める接着剤みたいなものがreligion、レリギオ。それを僕たちは日本語だとたまたま「宗教」と呼んでいるものだと思っているんです。
 でもそれって、宗教という日本語の言葉にしちゃった途端、宗派的なものにイメージが吸い寄せられちゃうじゃないですか。でもいわゆる仏教でも神道でもキリスト教でもないものを信じて、それを信じてるからこそ、生きていけるっていうことは誰にもでもあることですよね。それはサブカルでもいいし、好きなアニメでもいいし、自分の子どもを育てることでもなんでもいいと思うんですよね。そこで宗教と科学というものをバトルさせないで、いかにそこをつなげていくかということがやりたい、と考えてきたんですよね。
 それと、最近のビットコインとブロックチェーンみたいな話でまた出てきている「脱中央集権化」という言葉もありましたけど、実はこれまでの宗教というのは中央集権化していた。それは権力の構造がそういうことをアフォードしてきたということなんだけれども、 そうじゃなくて、自律分散型の宗教は作れないのか。リグレトでいえば、ユーザーはあるときは、自分が悩みを告白する弱者の側にいて、また別のときには他のユーザーの悩みを聞いてあげる、キリスト教でいうところの司祭のポジションになる。二項対立じゃなくて、受け手と作り手みたいなものの間のプロシューマーみたいな、トフラーじゃないけど、そういう二項対立じゃなくて二項同体。同時にどっちでもあるということですね。受ける方でも作る方でもあると。
 そういうRead OnlyでもWrite OnlyでもないRead/Writeであることがインターネットによって可能になった。その一つのインスタンスとしてリグレトなんかもあるんじゃないか気付かされた。その時に、自分は別に宗教的なことにコミットしようとか思ってもいなかったし、今でも狭義の宗教という意味では何かにコミットしようということは全然ないんだけれども、期せずして自分たちの作ったサービスを通して、それに触れている数百万人の人たちの心の中に大きな変容をもたらすような場所を作ってしまったんだという、ある種の慄きみたいなものを感じたんですよね。

佐々木 僕がlivedoorやLINEで担当してきたのも、たくさんのユーザーがいろんなことを言ったり書いたりするというサービスだったんですが、そこでも同じようなことを感じました。中央集権的なものが分散的なものになるというのはインターネットの一番特徴的なことだと思うんですけども、歴史上もそういうことがいっぱい起ってきた。地球が宇宙の中心だと思っていたけれども、実は周縁にすぎなかった。あるいは、人間は神に造られた特別な存在だと思っていたら、ただのホモサピエンスという種で、生物のなかのワンオブゼムに過ぎなかった。あるいは、精神は人間の主人だと思っていたけれども、無意識というものが発見されて、そうでもないということがわかった。中心だと思っていたのに実は辺境だった、ワンオブゼムにしか過ぎなかったということがいっぱいわかってきたわけですよね。その最新系が、情報技術やメディアによって起こっていると。
 たとえば今は通貨でさえも中央集権的ではないという方法が話題になっていますが、そのなかでひとつだけ、みんながまだ自分のものだと思っているものがあるんですよね。心です。人間の心だけは、人間のものだろう、自分だけのものだろうとみんなまだ思っている。でも僕はそうじゃないと思っている。ネットにいろんな人がいろんなことを書き込むサービスをやってきた経験の中で、心さえも自分のものではないんだという実感がある。つまり脱中央集権的な、分散的な話の最新系がいま心という分野に及んでいると思っていて。インターネット的なテクノロジーやAIの発展によって、いろんな人が考えていることがより自由に行き来したときに、自分の考えというものは自分でコントロールできないそういうものになっていくと。でもそれは恐れるべきものじゃなくて、そうなっていくんだからどういうふうにアジャストしていこうか、みたいなところまで書けたらいいなと思って、主人公はそれを言語化できずにいるところで終わるんですよね。

ドミニク だから続編が出るのかなと。

――そうですよね。

ドミニク 「僕これ続編が読みたいです」って佐々木さんにインスタントメッセージを送ったら、「今ぜんぜん別の話を考えてます……」と言われて、オイッ! と思ったんですけど(笑)。

佐々木 すいません(笑)。

ドミニク 心の話はめちゃくちゃ面白くて、安田登さんとここ一年半くらいよくお話をさせていただくんですけど、彼はシンギュラリティというのは実は過去に起こっているという話をするんです。例えば中国において「心」という漢字が生まれてきたのは、漢字そのものが発明されてから300年経ってからで、そこでようやく「心」という字が出てきたと。だから紀元前1300年頃に殷周時代を経て甲骨文字象形文字みたいなものから金文に進化して、そこで今の漢字につながる字体がワーっと作られたんだけど、心という字ができるのが紀元前1000年くらいなんですね。だから「心」という概念が生まれたのも300年のスパンがあるといって、安田さんは孔子の『論語』も読み解きながら、実は心という概念は当時めちゃくちゃ新しかったと。「え? 心?!」「なんか、イケてない?」とか、「心って、イケてるよね」みたいな感じだったんじゃないか(笑)。そういう目で見ると、孔子の『論語』は心というものを、新しく生まれた心や霊性といったものをどう捉えるかということに肉迫するためのエクスペリメンタルな書なんですよね。
 イナンナというシュメールの古代神話を追っていっても、心の把握の仕方が変わっていったということも面白い。シュメールでは当時、心の居場所を表す象形文字というのが女性器とか男性器を表す象形文字なんですよね。だから心は性器の中にあると思われていた。それがギリシャ時代になってからキリスト教の時代になってくると、お腹の話になってくるんですね。現代でもgut-feelingと言いますが、そういう胃腸の中の渦巻く感情みたいな表現が出てくる。その後、心臓のあたりを示すハートマークみたいなものが出てきて、さっき佐々木さんが言っていたように今だと脳主義みたいなものがあって全部ここ(頭)でしょうと。僕の娘にね、まだ3歳ぐらいのときに「ねぇ、心ってどこにあると思う?」て言ったら、速攻で頭を指していて。

佐々木 3歳でも頭を指すんですか?

ドミニク すごいなと思って。

佐々木 そうなんですね、面白い。

ドミニク ハートとか言いそうじゃないですか。だけど真っ先に頭指して。でも、もしかしたら、それが段々上がってきて、頭よりさらに上の、というか外の、そろそろ空中というか、クラウドを指すかもしれない(笑)

佐々木 この辺(頭の上の空間を指差して)に心がある、みたいなことになるかも知れない。

ドミニク 自分の心は北海道のデータセンターの方にある、とか思ったりして(笑)。だから人間って、古代から脈々とバージョンアップして生きてきたわけだし、さらにいうとその安田さんの話を解釈していてすごく面白いのは、言葉っていうのもテクノロジーだったということなんですね。当たり前ですよね。記憶を外部化するというときに、まず言葉を喋れてそれを文字として記録にできたのが最初だったわけで。それがなければ、農業というのは発達しなくて、都市も生まれなくて、サプライチェーンも生まれなくて、こういう眼の前のMacBookProとかも作れなかったわけだから。MacBookProを構成するテクノロジーと自然言語というものは、乱暴だと言われるかもしれないけど、僕は一直線に見えるんですよね。じゃあテクノロジーを捨てるというのは、本気でやるんだったら言語を捨てるっていうことなんですよね。それをそこまで迫力のあることを行ったり実際しているテクノロジー否定派という人は……まぁいるか、一部カルト集団とかね。シベリアの奥地とかの(笑)。

佐々木 だから今マーク・ザッカーバーグとテスラのイーロン・マスクが「お前の方がAIのことわかっていない」「お前の方がわかっていない」 なんて喧嘩してるじゃないですか。つまり情報技術の進歩というのは、核と同じくらい危険なものだと。それが人類にどんな悪影響を及ぼすかわかっていないテクノロジーなんだと。楽観的すぎるぞというふうに、イーロン・マスクが攻撃をする。すると、お前こそ火星ビジネスに投資を集めたいだけで人工知能をただ貶めているだけだろうみたいな、お前の方が分かっていないわ、みたいなことをマーク・ザッカーバーグが言い返すと。そういう喧嘩をやってると思ってるんですけど、そうだとするとどっちもしょっぱい話だと思っていて、人間の心がどうなるかみたいな話にはなっていない。お互いのポジショントークからは逃れられないわけですよね。でも、そうじゃない心の話の方が僕としては興味がある。



デモンストレーションとは、脱妖怪化すること



ドミニク 言葉の境というのは、実は今日の降霊術という話だったり、遠野物語で出てくる妖怪というものとも密接につながっていて、さっき聞きながら思い出して思い出してメモってたんですけど「デモンストレーション」という言葉があるじゃないですか。日本だとデモと言うと国会デモみたいなものを想像されると思うんですけど、フランスとか英語でデモンストレートってまず「証明する」ということなんですね。だから数学の授業で証明を書くというのはデモンストレーションというふうに言うんですよ。これも実は語源的に見ると否定形の言葉で非定型とかデ・モンストレートということなんですよね。僕、高校生のときにこのことに気付いて、当時の哲学の先生に「これどういうことなんですか?」と聞いたら、「よくぞ気付いたぞ」と言われて。「これはモンスターをモンスターじゃなくする言葉なんだよ」と。脱妖怪化ということなんですね。デモンストレーション。

佐々木 いいな、それ。いただこう。

ドミニク 確かに分かりますよね。数式の合理とか定義みたいなものを結果だけ知らされると魔法のように思えてしまうけど、証明するってそれを脱・神秘化するということ。論理的にアルゴリズムを解くということですよね。 だからデモンストレートという名の脱妖怪化をし続けて、僕たちは今の社会に立ってきているわけですよね。だからいろんな魔法を魔法じゃなくしてきたと。 ある不思議な現象を指して、「それは物理法則なんだ」と示す。なんだけれども、じゃあそのモンスターたち、まだデモンストレートされていない精霊や妖怪というのが一体何なんだと言ったときに、実はそこに心というものの未来があるかもしれないと僕は思っているんです。、つまり言語化した瞬間に価値を失ってしまうことってたくさんありますよね。言わずもがなのこととか野暮ったいこととか「それを言ったらおしめぇよ」、みたいなこととか、そういう卑近な例にまで、引き寄せて考えることもできると思うし。
 去年畑中章宏さんという民俗学者の方がWIREDで『21世紀の民俗学』っていうすごく面白い本を書かれて、刊行記念の対談をB&Bでさせていただいて。その本の中で、畑中さんも民俗学者なので、柳田國男についてすごく書いていて、柳田がすごく面白い狂ったことを当時言ってたと。それが死者の投票権。河童に投票権を与えようみたいなことを言ってたんですね。それは一体何かと言ったら、河童というのは畑中さんに言わせると日本中で記述が見られるのだけど、特に東北に多いと。シチュエーションとして、東北の水害と結びつけられているというわけです。つまり河童というのは災害による死者たちの妖怪で、それは死んだ人たちのただの表象ではなくて、生き残った人たちは水害で死んでしまった人たちに対する申し訳なさ、後ろめたさを妖怪という形にかたどって忘れないように記憶化した、というんですね。河童という表象もそういう意味では、そういう名付け得ぬ感情を記憶していくために生き残っていた側が生み出したもの。それはもしかしたら佐々木さんが小説を書かないと心が持たないということにも通じるんじゃないか。積極的な言い方をすると、自分がもっと生き生きとするためにこの小説を書いたということにも通底する話だと思うんです。それで、柳田は、国家というシステムは、河童、つまり死者たちの意思を反映するべきではないかということを書いていて、畑中さんはそれを河童の投票権という表現をしている。
当然、こういう話は非合理的だと言われるんですね。ただ、河童の投票権ということはつまり、生きている我々が今の社会の向かい先を決めるときに、無念にも亡くなってしまった人たちのことをも我々は代表しないといけないよねというメッセージであるわけですね。それはものすごく真っ当な考えだと思うんですよ。例えば自分自身がね、無念にも死んだときにどうやって死んだ僕の投票権というのをこの社会の中に生かすか。それはもちろんテクニカルに詰めていかなきゃいけない話なんだけども、法制度からその権利について議論することは全然可能だし、それこそブロックチェーンのようなロバストなネットワークを上手く活用すれば実装できるとも思うんですよ。こういうことの価値を、ただの「うん、良い話だけど、難しいよね」で終わらせるんじゃなくて、本気で実装するというのが今のITで考えることのできる、本当の面白いことだと思います。



(後半に続く。後日公開)


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