タグ

タグ:梅田望夫

カテゴリ:
発売を心待ちにしていた『シリコンバレーから将棋を観る -羽生善治と現代』。期待を裏切らない素晴らしい内容です。こういう本が書かれたということが、私は本当にうれしい。売り歩きたいくらい。


シリコンバレーから将棋を観る -羽生善治と現代シリコンバレーから将棋を観る -羽生善治と現代
著者:梅田望夫
販売元:中央公論新社
発売日:2009-04-24
おすすめ度:4.5
クチコミを見る


うれしい理由 その1「将棋鑑賞」

この本のテーマのひとつは「将棋鑑賞」です。野球をできない人が野球観戦を楽しむのと同じように、将棋を指せない人が将棋鑑賞を趣味にしたっていいじゃないか。むしろそうやって裾野を広げるべきではないか。つまりそういう考えなのですが、私自身が「指せない将棋ファン」なので、我が意を得たりといった感じですごく心強かったです。

ちなみに私は、将棋鑑賞の趣味をこじらせて、平日に有給をとって山形県天童市まで竜王戦第七局を観戦しに行きました。そういったファンにとってこの本は、将棋界のクロニクルとして、2008年の激闘を振り返る際の貴重な“よすが”となります。こうした本が世に出たことが、私は本当にうれしい。


うれしい理由 その2「知のオープン化の最前線レポート」

この本のもうひとつのテーマは、「知のオープン化の最前線レポート」です。将棋界という知のオープン化が進んだ世界において、20年近くもトップを走り続ける羽生さんが独自に導き出した最新の哲学を、ビジネス(特にインターネット業界)にフィードバックしようという試みがなされています。

たとえば、こんな言葉に私はドキっとしました。

※カオスな状況(過去の経験や知識が役に立たない状況)をサバイブするのにどういう能力が必要かと問われて

羽生「いや……やっぱりその、いかに曖昧さに耐えられるか、ということだと思っているんですよ。曖昧模糊さ、いい加減さを前に、どれだけ普通でいられるか、ということだと思うんです。」(p245)

なんでもかんでも整理しよう! 効率化しよう! ってのが近頃の流行りです。でも羽生さんは、曖昧さをそのまま受容して、それに耐えろと言うわけです。普通はこういう発想になりませんよね? しかもこれは言葉遊びではなく、勝負の現場から生まれた言葉だというのがすごい。

もうひとつ、去年放送された「百年インタビュー」のなかの言葉を紹介します。

百年インタビュー 羽生善治』(NHK)

今日勝つ確率が一番高いというやり方は、十年後では、一番リスクが高くなるんですよ。十年後では、進歩に遅れているというか、時代に取り残されているやり方なんです。(中略)

一番手堅くやり続けるというのは、長い目で見たら、一番駄目なやり方だと思うんです。勝率の高いやり方にこだわるというのは、未来を見ているのではなく、過去を見ているということですから。

著作権のないオープンな世界においては、他者を模倣する(成功のエッセンスをパクる)ことが容易にできます。特にインターネットの世界では簡単です。
しかし、それは、未来を見た場合にもっとも勝率が悪いことだと羽生さんは断言します。


不合理であれ。クリエイティブであれ。


私はそういうメッセージとして受け取りました。

というわけで、『シリコンバレーから将棋を観る -羽生善治と現代』はたくさんの人に読まれてほしい良書です。ぜひ、手に取ってみてください。

シリコンバレーから将棋を観る -羽生善治と現代シリコンバレーから将棋を観る -羽生善治と現代
著者:梅田望夫
販売元:中央公論新社
発売日:2009-04-24
おすすめ度:4.5
クチコミを見る

カテゴリ:
 

幼年期の終わり』を読んで気づいた。

第1部の「オーバーロード」を「Google」に読み替えると『ウェブ進化論』と似たような内容になる。それで、「そうか『ウェブ進化論』はSFとして読むといいかもしれない」とひとり合点がいった。

- 所詮はSFだが、示唆に富んでいる
- 示唆に富んでいるが、所詮はSF

どう読むかはそれぞれだけども。

関連リンク : 幼年期の終わり - Wikipedia

カテゴリ:


梅田望夫は1960年生まれ、茂木健一郎は1962年生まれ。同世代だ。子ども時代の彼らにとって「未来」とは、明るく輝かしい世界を象徴する言葉だった。

そうした未来感を決定づけたのは、1969年のアポロ11号月面着陸。科学の進歩が人類の活動範囲を宇宙にさえ広げていくという、夢と希望に満ちた未来感を与える事件だったはずだ。

しかし実際には、そうした未来はやってこなかった。人類はいまだに地表にへばりついたまま、環境問題などの現実的な問題に追いやられている。

梅田望夫と茂木健一郎は、そういった時代にあえて、子ども時代に「宇宙」に夢見たような明るく輝かしい未来を、「インターネット」の世界に見いだそうとしている。たとえそれがオプティミストであると批判されるとしても。


というのが、「フューチャリスト」を宣言する彼らのポジションだ。


さて、この本で語られているインターネットの可能性には同意するところが多い。それにはもちろん、同じ業界の人間としての身内びいきが入ってるわけなんだけど。

でも、インターネットの可能性を語っている彼らのポジションには違和感があった。自分のポジションとはあまりに違っていたからだ。


1980年生まれの私にとっての未来感は、“終末”を抜きにして語れない。
80年代には、あらゆる漫画や映画や小説が、世界はいずれ破滅するもんだいう終末観を共有していた。『AKIRA』もそうだし、『風の谷のナウシカ』だってそう。あとなんといっても『ノストラダムスの大予言』のインパクトがでかかった。例ならほかにいくらだって挙げられる(っていうか、学校の図書室に置く本じゃないよな)。

そんな終末観のなかで、この世界はいずれどこかでリセットされる、という未来感が自分のなかに育っていった

そしてその終末を、自分たちの手でこの世界に招き寄せようとした事件があった。オウム真理教の地下鉄サリン事件だ。

しかし彼らにも、私たちにも、終末のときはやってこない
私たちはあいかわらず、この“終わりなき日常”を生き続けるしかない。


夢や希望に満ちた未来感をもてないまま生きる“終わりなき日常”はつらい。
ある人は、それに耐えるため、日常の隙間を埋める絶え間ないコニュニケーションに没頭する。またある人は、それから逃避するため、自分が作り出した自分だけの世界に閉じこもる

そういったことを可能にし、かつ、その手段を充実させたのがインターネットだと思う。考えてみれば、地下鉄サリン事件とWindows 95の発売が同じ年の出来事だというのも、なんだかおもしろい。


だから、私にとってのインターネットの第一印象は、どこか諦観の混じった、ネガティブなものだった。
もちろん今では、インターネットの可能性についてポジティブに考えているつもりだけど、梅田望夫や茂木健一郎のように、宇宙とインターネットに「フロンティア」という共通のタグをつける、という発想はなかった。そのオプティミスティックな未来感には、素直に驚いた。

まとまりのない感想だけど、よって立つポジションが違うと同じポジティブといってだいぶ感じが違うんだなあ、と思った。

このページのトップヘ

見出し画像
×