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梅田望夫は1960年生まれ、茂木健一郎は1962年生まれ。同世代だ。子ども時代の彼らにとって「未来」とは、明るく輝かしい世界を象徴する言葉だった。

そうした未来感を決定づけたのは、1969年のアポロ11号月面着陸。科学の進歩が人類の活動範囲を宇宙にさえ広げていくという、夢と希望に満ちた未来感を与える事件だったはずだ。

しかし実際には、そうした未来はやってこなかった。人類はいまだに地表にへばりついたまま、環境問題などの現実的な問題に追いやられている。

梅田望夫と茂木健一郎は、そういった時代にあえて、子ども時代に「宇宙」に夢見たような明るく輝かしい未来を、「インターネット」の世界に見いだそうとしている。たとえそれがオプティミストであると批判されるとしても。


というのが、「フューチャリスト」を宣言する彼らのポジションだ。


さて、この本で語られているインターネットの可能性には同意するところが多い。それにはもちろん、同じ業界の人間としての身内びいきが入ってるわけなんだけど。

でも、インターネットの可能性を語っている彼らのポジションには違和感があった。自分のポジションとはあまりに違っていたからだ。


1980年生まれの私にとっての未来感は、“終末”を抜きにして語れない。
80年代には、あらゆる漫画や映画や小説が、世界はいずれ破滅するもんだいう終末観を共有していた。『AKIRA』もそうだし、『風の谷のナウシカ』だってそう。あとなんといっても『ノストラダムスの大予言』のインパクトがでかかった。例ならほかにいくらだって挙げられる(っていうか、学校の図書室に置く本じゃないよな)。

そんな終末観のなかで、この世界はいずれどこかでリセットされる、という未来感が自分のなかに育っていった

そしてその終末を、自分たちの手でこの世界に招き寄せようとした事件があった。オウム真理教の地下鉄サリン事件だ。

しかし彼らにも、私たちにも、終末のときはやってこない
私たちはあいかわらず、この“終わりなき日常”を生き続けるしかない。


夢や希望に満ちた未来感をもてないまま生きる“終わりなき日常”はつらい。
ある人は、それに耐えるため、日常の隙間を埋める絶え間ないコニュニケーションに没頭する。またある人は、それから逃避するため、自分が作り出した自分だけの世界に閉じこもる

そういったことを可能にし、かつ、その手段を充実させたのがインターネットだと思う。考えてみれば、地下鉄サリン事件とWindows 95の発売が同じ年の出来事だというのも、なんだかおもしろい。


だから、私にとってのインターネットの第一印象は、どこか諦観の混じった、ネガティブなものだった。
もちろん今では、インターネットの可能性についてポジティブに考えているつもりだけど、梅田望夫や茂木健一郎のように、宇宙とインターネットに「フロンティア」という共通のタグをつける、という発想はなかった。そのオプティミスティックな未来感には、素直に驚いた。

まとまりのない感想だけど、よって立つポジションが違うと同じポジティブといってだいぶ感じが違うんだなあ、と思った。