大津波の記憶について(『ゲド戦記を読む』の中沢新一の解説から)
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そんなわけで、今回の大津波の映像は、人類の根源的な記憶に訴えかけるものがあったんだろうなあ、とか思っていたら、ちょうどそれに関わっておもしろい文章を見つけた。

ジブリの『ゲド戦記』のプロモーションで作られた『ゲドを読む』という文庫にある、中沢新一の解説がそれ。結構長いんだけど(文庫のページにして3ページ半くらい)、そのまま載せます。
日本にも押し寄せた多島海時代の波
ル=グウィンが『ゲド戦記』を書いた時代というのは、一個人の発想で何かが生まれるというよりも、時代を揺り動かす全体的な胎動が、個人の発想力、想像力の源になっていました。彼女にとって、書くべきは「有色の世界」であって、白人を中心に考えられて来た世界史や美術史の世界を、ひっくり返そうとしたのです。
こうした時代の波は、当時の日本にも押し寄せました。時代を覆う精神が、世界的に「多海島状態」になってしまったのですね。日本の若者たちも不安でした。なぜならば、まわりは海で、自分はそこに浮かぶ孤島のような存在であり、自分の拠って立つべき文化的なアイデンティティなんて信じられなくなってしまったからです。
日本人は太平洋戦争後、アメリカの文化や考え方を受け入れて高度経済成長を遂げました。アメリカからは「ハワイにつぐアメリカ合衆国の州」と言われて喜んでる人たちもいたのですが、これではいけないのではないかということにも気がつきはじめた。そんなとき、中国では紅衛兵がずいぶん威勢のいいことをやっているし、フランスでは若者が革命を起こしていた。ビートルズだってインドに行く。そうした一連の出来事に、日本も若者達も影響を受けました。そして、心の中が多島海時代に入ってしまったのです。そういう状況のもとで、日本でも『ゲド戦記』が読まれました。
海の上というのは、一切の価値観が転倒してしまう場所です。自分がいた世界の価値観から、切り離されてしまう。しかし、日本は島国で、もともと海に浮かんでいる感覚をどこかで持っていた国民ですから、『ゲド戦記』の世界観は受け入れやすかったということもあるでしょう。ル=グウィンの作品は、自分たちの心境をとらえたものとして、日本の若者達に受け入れられていったのです。
ル=グウィンは、引き寄せられるようにしてアメリカ先住民の世界へ向かい、それを経て『ゲド戦記』を書き始めました。そしてそれは、地球的な規模で無意識の思考が浮上してきた時代の精神とも通じていました。だからこそ『ゲド戦記』は、現代の古典としての意味をもっています。古典作品は、作家の個人性を超えた、人類の無意識からしか誕生しないのです。
コンピューター・ゲームも「大津波」の産物
現在に続くコンピュータ・ゲームのブームというのも、あの時代と無縁ではありません。ゲームも多島海の世界観につながっています。それを都会で暮らす子供たちがつくるとしたら、ダンジョンのような地下の迷宮世界になっていくのですね。
ゲームソフトの開発者たちは、60〜70年代の多島海時代を子供の頃に体感した世代で、その記憶がやがてゲームという形になっていったのです。今、主流となっている文化は、あの多島海時代に起こったことの記憶の破片によってできているというのが、私の印象です。
このことを考えるときに思い出すのは、ポリネシア文化のことです。ポリネシアの島々には、大洪水の神話が伝わっています。昔々、大洪水が島々を襲い、姉と弟の二人だけが残され、それが島の発端になったという神話は、ポリネシアをはじめ、メラネシア、ミクロネシア、インドネシア、マレーシア、フィリピンなど、環太平洋の島々に伝えられています。
カナダにラブラドル湾という場所があり、氷河期には、湾全体が氷河で覆われていたのですが、地球の気温があがって氷河が一気にとけたことで大津波が起こり、とくに大きな被害を受けたのが環太平洋地域だったことが、科学的な調査からわかっています。ポリネシアの文化は、そのときの記憶をずっと持ち続け、記憶の破片を神話にして語り伝えてきたのです。
それと同じように、60年代には、精神的な大津波が世界的な規模で若者たちを襲ったわけですが、そのときの記憶の破片を集めて作られたのが、「ドラゴンクエスト」をはじめとする現代の神話としてのゲームだった、という気がします。
これは2007年頃の文章ですが、今この状況で読むと、また違った感慨が湧いてくる。集団の記憶というのは、こうして折り重なっていくんだな、というのを実感している。