『ゆかいな仏教』を読んだ
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現代人にとって仏教を理解することにどんな意味があるのか、という視座に立って、あくまでわかりやすく、かつ、おもしろおかしく対談しています。音声で聞いてみたいと思うような、痛快な内容でした。

帯には小難しそうな名前がずらずらあがってますが、内容はいたってわかりやすい。ときにゲラゲラという笑い声が聞こえてきそうなほど。
朱の色は、早い速度で山火事のように尾根一帯を染め、互に合流して深くきざまれた渓谷へなだれ落ちていった
耕地では、一鍬ごとに木の根や石塊がとりのぞかれ、人や家畜の排泄物を吸収した土は朽ちた葉もふくんで柔かみを増していた。耕地は少しずつひろげられ、女たちは子を産み、子は背丈をのばしていった。
人間の集落には、家屋、耕地、道とともに死者をおさめた墓石の群が不可欠のものであり、墓所に立てられた卒塔婆や墓石に供えられた香華や家々でおこなわれる死者をいたむ行事が、人々の生活に彩りと陰翳をあたえ、死者を包みこんだ土へのつつましい畏敬にもなる
そもそも、車と人間が走る競争をして、人間が負けたからといって、悔しがる人間はいない。車の方が速いのがあたりまえだからだ。(中略)
しかし、コンピュータと人間が対戦して、人間が負けたとなると、そうはいかない。人間はくやしいし、人間は傷つくし、なんとか人間に勝って欲しいと思う。コンピュータのソフトを作っているのも同じ人間であるとわかっていても、人間はつい人間を応援してしまうのだ。
それは何故か。
それは、おそらく、これが人間の脳に関わる事だからだ。
人間を人間たらしめているのは、早く走ることでもなく、力が強いことでもなく、脳が持つ力がすぐれているからである。
コンピューターは不自由で人間は自由という見方もあるが、それも違い。流行のボーカロイドなどを見てもそうだが、コンピュータこそ何の気兼ねもなく、自由な表現ができる。(阿部光瑠)
我慢して粘り強く指すことの大切さ。これはツツカナから学んだことだった。(船江恒平)