僕らのネクロマンシーな旅 2018 春
- カテゴリ:
- 小説について
さて今回の遠野滞在では、小説を書き終えたあとに(あるいは書きながら)知り得たことを確かめるためにさまざまな場所を訪れた。
小説の冒頭に登場する恋愛成就の「卯子酉様」。プライバシーに配慮してその願い事は写さないようにしたが、若い女性たちの文字で実に、実に賑わっている。僕が子供の頃はこんな場所ではなかったはずだし、小説のなかで書いたそれよりさらに賑わって感じられる。晩婚の時代にあって、今後もしばらく繁栄を約束された、いま遠野でもっとも注目すべき神様である。
ちなみに、作中「レディ」が卯子酉様で主人公を挑発するシーンは、筆者が密かに好きな場面のひとつです。
間をすっ飛ばして、小説の最後に登場する「ナラティブと、ベッド」の立地からの眺めに相当するのがこの写真。松崎の田園風景、猿ケ石川、遠野町の市街地が見られる場所で、作中「領土すべてを見渡せる」「遠野の本当の中心地」と書かれてあったところである。ところがこうした場所は私有地になっており、小説の刊行前には見ることができなかった。それが今回、柳田冨美子さんの許可をいただいて「緑陰小舎」という建物の二階から確かめることができた。僕の描写に間違いがなかったことも確かめられて一安心した。
ちなみに、緑陰小舎の中身にも衝撃を受けたのですが、私邸なのでここでは公開はできません。あしからず。
今回の滞在でもっとも楽しみにしていたのが、五月にオープンしたばかりの遠野醸造。ホップの栽培面積が日本一の遠野市でビールによる町おこしをする、というアイデアが小説中に出てくるが、それを書いたときにはまだ「遠野醸造」はもちろん「Next Commons Lab」もなかった。それがあれよあれよとこの二年ほどの間にここまでかたちになったということに本当に驚嘆し、心からの敬意を抱くばかりである。なにしろ僕のほうはフィクションだが、こちらは本物のビールである。
その遠野醸造で、遠野八幡神社で神職を務める多田宜史さんと、地域プロデューサーとして「to know」というプロジェクトをしかける富川岳さんの二名と、「僕らのネクロマンシーと遠野」をテーマに語ってきた。
多田さんは、『教訓で読み解く遠野物語』という本をセルフパブリッシングされており、遠野の内田書店ではそれが若竹千佐子さんの『おらおらでひとりいぐも』と並べて売られている。
富川さんは、遠野への興味と愛をよりアクチュアルなイベントというかたちで実現させている。上の写真は刷りあがったばかりの2018年のポスター(『遠野物語』序文の道を歩くイベントは特に人気とのこと)。
そんなふたりと『僕らのネクロマンシー』を肴に酒が飲めるというのは、著者として、そして遠野を愛するひとりとして、こんなにうれしいことはない。それに、見ていただきたい。この数々の付箋を。
この付箋から繰り出される話とは、このようなものである。
・剣舞をモチーフにしたのは実に秀逸なアイデアである。剣舞(けんばい)の語源は、悪霊払いの反閇(へんばい)にあると言われており、降霊術をテーマにしたこの小説にふさわしい。しかも幻の剣舞は、過去、実際に存在した。佐々木さんはそれを知って書いたのか?(←まったく知りませんでした)
・この小説には、ご飯を食べるシーンがたくさん出てくる。それは人間とAIの対比を意図したことなのか? つまり、AIは電気に「いただきます」とは言わない。命をいただかずには生きていけないのが人間だと考えると、見事な対比になっている(←それ僕が考えたことにさせてください)
・遠野まつりの新たな出し物を企画する話が出てくるが、今から100年ほど前の遠野新聞におもしろい記述があったのでコピーしてきた。要するに「うさみみ」をつけてぴょんぴょん跳ねる、当時としては斬新な演出が評判になったとある。だから伝統にとらわれず、どんな出し物があってもよい(←VTuberのお神輿があってもいいんですね!)
などなど多数。
話の最中、関連資料のプリントが次々と出てくる。
私の書いたものはフィクションなのでわからないところはあきらめて想像で書いているが、それをかなりの部分まで正確な資料で補足し裏付けてくださるのは本当にありがたい。
そしてこのふたり、鞄のなかからあたりまえのように『注釈遠野物語』を出してきて、わからないところはすぐ調べる。
こちらは富川さんの『注釈遠野物語拾遺』。遠野物語研究所が発行しているもので、一般にはなかなか流通していない本もさらりと出てくるあたりさすがである(ちなみに後日、遠野博物館に同じものを求めにいきましたがすでに在庫切れでした)。
遠野を作品の舞台にするにあたっては、可能な限り資料にあたり現地に足を運んだつもりである。もちろんそれで完璧というわけにはいかなかった。しかしその不足と欠落も、悪くはなかった。おかげで、こうして遠野物語に魅せられた同世代の仲間が集まり、あれこれと自由に語り合うことができた。
その後、あまりに近くにありすぎて足を運んだことのなかった「遠野物語の館」に行き、そこで柳田国男初期三部作の『遠野物語』初版現物がディスプレイされているのを見てきた(三部作は上記の他に『後狩詞記』と『石神問答』)。
初版わずか350部だけ刷られたこの本が、人口わずか28,000人あまりのこの町のあらゆるところにいまも影響を与え続けている。なんということか。それを知るほどに、この本の前から立ち去りがたい気持ちになっていった。
上の写真は、現在『僕らのネクロマンシー』を店頭販売している日本で唯一のお店「NōTO GENERAL STORE」でのものである。実際に手に取って読めるようにしてくださっていて、僕が訪れたときもお客さんが読んでいた(もちろん、平常心でいられなかった)。
この素晴らしいお店NoTOも、小説執筆中には存在しなかった。なぜこうした人や、店や、出来事や、作品が集中しはじめたのだろう? 小説のなかに織り込んだ「こうなったらおもしろいな」という願いが、現実によってあっという間に上書きされそうになっている。本当に不思議である。遠野物語の書かれざる120話を生きているようだ。
きっと『僕らのネクロマンシー』を読んでから遠野に来ると、「河童」「座敷わらし」「ひっつみ」「ジンギスカン」といった手垢のついた遠野像とはまったく違うあたらしい遠野を楽しめると思います。過去それらに親しんできたも僕も、いままさに、あたらしい遠野を戸惑いつつ楽しんでいます。
インスタもどうぞ。
僕らのネクロマンシー販売サイト