受け入れ難きを受け入れる 〜 『ラブ・ネヴァー・ダイズ(オペラ座の怪人2)』についてあれこれ考えてみた
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『オペラ座の怪人』(アンドリュー・ロイド・ウェバー版)に思い入れのある僕が、続編の『ラブ・ネヴァー・ダイズ』を観た結果、当然、しらけたよね。まさにこんな感じ。
梨音♪@lion_momomeguラブネヴァ、ファントムとクリスティーヌって肉体関係を持った設定なの?ないわ……。無理あるわ……。普通に別れた男女の話になっちゃったよ。
2012/07/04 19:31:24
あの物語を丁寧に読んだ人にとって、とても許容できない展開。正直、観なかったことにしてしまいたい……。
もちろん、いくらアンドリュー・ロイド・ウェバーの手になる正当な続編だとはいえ、僕たちはそれを黙殺することができます。プライベートな鬱屈のはけ口を創作に求めたご老人が晩節を汚す駄作を書いてしまったのだと思えばいいんです。
が、しかし。
なぜこの続編が受け入れ難いのか、そしてまた、どうだったら満足できたのかを考えることは無駄ではないはず。考えたところで『ラブ・ネヴァー・ダイズ』の評価は変わらないでしょうが、『オペラ座の怪人』をより深く理解する助けにはなるかもしれません。
ファントムとクリスティーヌに肉体関係はあったのか?
そんなわけあるかよ。というのが率直な感想なのですが、まずはその根拠を純粋に作品の中に求めてみましょう。
結局ラストで、ファントムはクリスティーヌの肉体をも求めていたわけですが、英語歌詞を知るまでは「飢えた悪魔のえじきの私」って、クリス、言い過ぎだよ、でした。ファントムの「醜くゆがんだこの顔 それが私をこうした」の「こうした」は性格的なことで肉欲まで含んでいるとは思いもしません。
…denied me the joys of the flesh,,,
日本語「醜くゆがんだこの顔」
直訳すると「(この運命は)肉体の喜びをも拒むのだ」
意訳としては「肉体の欲望が受け入れられることはなかった」
少々生々しさはあるものの、ここで肉体的なものを押し出すことで、最後の最後、ファントムが威厳と誇りとクリスティーヌとの精神世界を選ぶことが引き立つのかな、と思うようになりました。
Well Read in Phantom ♯5 - 『オペラ座の怪人』は凄いし、好き。
まさにその通りで、肉体関係がなかったと思えばこそ、クリスティーヌの最後のキスが尊い意味を持つわけで、こっちは当然そういう話だと思って観てたよね。
ちなみに、上の紹介した記事の後半には、ファントムとクリスティーヌとラウルの三重唱を、原点の英語歌詞から読み取る試みがなされていますが、言葉と一緒にメロディも蘇ってきて鼻の奥がツンとしてくる……。「Lead me, save me from my solitude...」のあたりとかもう。
しかし一方で、同じ作品の中から読み取るのでも、「肉体関係はあった」とする人もいます。
結論から言うと多分あったのだろう。
ファントムは登場シーンでクリスティーヌを「私の宝もの」と歌う。英語では「my triumph」であり直訳すると「私の勝利」だ。彼は作中でオペラを創作する。その作品名は「ドンファンの勝利(DON JUAN TRIUMPHANT)」だ。内容は殿様であるドンファンが召使のパッサリーノを使って自らの性欲を満たして行くというものだ。作中でクリスティーヌ演じるアミンタが自宅に呼ばれる。アミンタはドンファンにとっての「勝利(triumph)」というわけだ。これは音楽の天使を操り(または自らが扮して)クリスティーヌを手中に納めたファントムと酷似する。ドンファンとパッサリーノの関係はファントムと音楽の天使との関係に相似し、「勝利」が性的な対象を意味する。
ファントムとクリスティーヌの肉体関係 - オペラ座の怪人、点と線
僕の考えでは、この劇中劇は性愛の代理行為に過ぎないと思いますが、ファントムとクリスティーヌに肉体関係があったかどうかは暗示的な言葉で巧妙に煙幕がはられ、決定的な描写は避けられています。そのため、ふたりの間に肉体関係がなかったとは断言できず、「やっちゃってるんじゃないの」と思って観るのも間違いだとは言い切れません。こうした見方に説得力を与えるにはかなり強引な解釈が必要だと感じますが、それを完全に否定するだけの材料もまたないんですね。
では、作品の外側から読み取ることはできるでしょうか。
自分はまったく気づきませんでしたが、映画版『オペラ座の怪人』にはこんなほのめかしがあったようです。
唯一、「もしや?」と思うシーンは、ファントムが最初にクリスティーヌを隠れ家に連れて行ったとき、彼女はウェディングドレスを着せられた自分の等身大の人形を見て倒れ、ファントムがベッドに運ぶのですが、彼女が目覚めたとき、隠れ家にきたときに履いていたガータストッキングを履いていなかったところ。
ファントムの愛と性 - Something Blue ...
もうひとつ。Susan Kayが書いた小説『ファントム』(自分は未読)には、以下のようなシーンがあるそうです。
隠れ家でファントムがオルガンでこの曲を演奏したとき、ファントムによって別室に閉じこもるよう命じられたクリスティーヌがそれを聞いて、性的なファンタジーに浸るのです。ファントムがなぜ彼女を部屋に閉じこめたかというと、性的欲望に負けそうになったためです。そしてこの曲を演奏することで「音楽で犯した」と書かれています。
ファントムの愛と性 - Something Blue ...
「ファントムとクリスティーヌに肉体関係はあったのか?」という問題は、さまざまな作家や演出家の創作意欲を刺激するモチーフなんでしょうね。あってもおかしくはない、という想像の余地を残す演出。なかったんだけど、それより過激な代理行為をさせる演出。さらには、クリスティーヌとの間にはなかったんだけどマダム・ジリーとの間にはなにかあったかもよ、とする演出まであるそうです(どの作品のことか未確認)。
しかしいずれの場合も共通するのは、「肉体関係があったという決定的な証拠はない」ということであり、「プラトニックラブとエロスの間の煩悶こそがこの作品の根源的な魅力のひとつである」、ということになろうかと思います。
……と、このように考えたところで、結論は第一印象と変わらないんですけどね。駄作です。
『ラブ・ネヴァー・ダイズ』が受け入れ難いたったひとつの理由は、ファントムとクリスティーヌがあの夜(「ミュージック・オブ・ザ・ナイト」のあの晩)の肉体関係を認めてしまったことにあります。そのせいで、絶妙なバランスの上に成り立っていた過去の『オペラ座の怪人』の演出がすべて台無しになってしまうという……。
めちゃくちゃすぎて逆におもしろいっちゃおもしろいんですが、受け入れ難きを受け入れて『ラブ・ネヴァー・ダイズ』を楽しむために、どうだったら満足できたのかもうちょっと考えてみました。
親子関係こそ続編のテーマにふさわしかったのでは?
『オペラ座の怪人』は、ファントムとクリスティーヌとラウルの三角関係が物語の中心でした。しかるに、『ラブ・ネヴァー・ダイズ』でその三角関係を繰り返してどうするんでしょうか。ファントムとクリスティーヌの息子・ギュスターヴを登場させるのであれば、それを中心にして各登場人物に別の角度から光を与えるべきだったのでは。
「親子」というキーワードを使うと、前作では深く掘り下げられなかったいくつかの人間関係が浮き上がってきます。
1. ファントムと、彼を見世物小屋に売りとばした母親
2. クリスティーヌと、バイオリン奏者の父親
3. メグ・ジリーと、母親のマダム・ジリー
まだあります。血のつながりのない親子関係です。
4. ファントムと、彼を見世物小屋からひろった代理母としてのマダム・ジリー
5. クリスティーヌと、父親の影をまとって登場する音楽の天使(ファントム)
6. ギュスターヴと、ラウル
これらをもっと掘り下げてみたらどうだったんでしょうね。
そうするとたとえば、ファントムがクリスティーヌのためにあたためていた曲「Love Never Dies」は、ファントムに向けてではなく、死にゆく母・クリスティーヌが愛息・ギュスターヴのために歌うのかもしれません。
また、アンドリュー・ロイド・ウェバーの恨みを買ってしまったせいなのか知りませんがいいところなしのラウルには、血を超えた親子の絆を示すためにもギュスターヴをますます愛してやってほしいところ。酒を断ち、ファントムからギュスターヴを取り返し、悲劇の連鎖を断ち切ってあげましょう。
そしてファントムは、はじめのうちクリスティーヌのために歌っていた「Til I Hear You Sing」をメグ・ジリーのために歌ってあげてはどうだったでしょうか。プラトニックラブとエロスの間で煩悶していた頃の自分とは違うのだということを見せつけてやるんです。かつて自由自在に操れた「音楽の力」の加護はもうない(なぜならあなたはすでにクリスティーヌの愛によって目覚め、また老いてきているのだから)。いま自分を突き動かしているのは、若き性愛による醜い執着であることを進んで認め、人生の後半に差し掛かった自分と折り合いをつけてはどうだったでしょうか。ファントムにはそうした人格の成熟を見せてほしかった(アンドリュー・ロイド・ウェバーさん、あなたのことでもありますよ!)。
もしそうでないのなら、実子・ギュスターヴの存在を知ったときに、それを否定してほしかった。突然、父親になってしまった自分におののいてほしかった。間違っても、家族愛などに目覚めずに、孤独にしか生きられない性を全うしてほしかった。そしてそのとき、自ら画面を剥ぎ取り「ダーーーダダダダー♪」というオペラ座の怪人のテーマが流れたとしたら……きっとゾクっとしただろうなあ。
あるいはまた、半ば崩壊が暗示されていたラウルとクリスティーヌとギュスターヴの家族の絆を再び確かなものにするため、かつてはコンプレックスだった醜い肉体を道化のための武器に変えて、ラウル一家のために悪役を買って出るのもよかったかも。
以上、妄想でした。
なんだかんだ言ってファンは見逃せない作品です。未見の方はお楽しみに!
ただし「Til I Hear You Sing」はイイ!
DVDで観るなら
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http://sasakill.blog.jp/archives/50755589.html