佐渡島庸平トークイベント 「超一流のプロとその他のアマ」論の行方
- カテゴリ:
- 思った
コルクの佐渡島さんがゲストに招かれた東京編集キュレーターアカデミー第4回(2013年5月1日開催)が、一部の参加者の間に少なからぬ反感と戸惑い呼び、イベント終了後もしばらく話題になっていました。
佐渡島さんは、講談社で『バガボンド』『ドラゴン桜』『働きマン』『宇宙兄弟』といったヒット作の担当編集者を務められたあと、作家エージェント業に特化した株式会社コルクを昨年末に設立した、業界が注目する人物のひとりです。その佐渡島さんを迎えて設定されたテーマは、「うまい編集ってなんだ? プロとアマの境界線」というもの。トークイベントではこの問いに対して非常に明快な解答が得られたわけですが、まさにその答えが波紋を呼びました。
いくつかの感想を紹介します。
「プロとアマの境界線」という問いに対して佐渡島さんは、「超一流と、それ以外のアマがいるだけだ」と、イベントの前提そのものがブッ飛ぶような豪速球をお投げになりやがりまして、なんだろう、「両国国技館のお前らに告ぐ。横綱以外はただのデブ」と言われた気分といいましょうか、集まったアマ(デブ)の心を根こそぎ折っていく感じがありました。さすがこれまで売った部数が3000万部超、「30万部ではまだまだ知られてない。100万部を超えてはじめて......」とおっしゃる方だけはあります。プロはすごいな。ほんとに横綱相撲だ。(daialog)
言うなれば「車が誰でも買える時代、その中でより速く走るために必要なことを学びましょう」という会にミハエル・シューマッハーがF1マシンで登場して、「鈴鹿サーキットを毎周1分31秒代のペースで維持すれば勝てるよ!」て言っちゃったみたいな、そんな圧倒的ミスキャスト。(乱れなよ、そして召されなよ)
話の理論も矛盾なく一貫したすばらしい講演であったのですが、求めていたお話と違うという点で若干の消化不良でした。なんというか、バイキング料理食べにいったら一品料理しかなくて、でもそれがすんごいおいしいクオリティなんだけど「あれ、俺バイキング食べに来たんだけど、でもこれはこれでおいしいし、むむう……」みたいな。(カイ士伝)
こうした反応を引き起こした原因のひとつは、東京編集キュレーターアカデミーの趣旨との齟齬にあったわけですが、それを差し引いたとしても、いくつかの疑問は残りました。
専属編集者がつくべき超一流の作家が100人しかいないということは、その他は、編集者が付く価値のない作家か、あるいは編集者なしでセルフパブリッシングでやっていく作家か、ということになります。ということは、超一流の100人を担当していない(あるいは、その作家を超一流まで導けない)編集者は必要ないという挑発的な発言にも読み取れるので、そうであるならば、それは「編集」という職業を自己否定していくことにつながるのではないか?
しかし、そこからまた時間が経って冷静に考えてみると、佐渡島さんのスタンスはきわめて正しいと思うようになりました。
本書に収録した「鼎談・セルフパブリッシング狂時代」において、鈴木秀生さんは、紙の出版点数は現在の10分の1くらいが適正ではないかというようなことを取次時代の経験から語っておられます。また今後は、よりマスな人気を獲得できるコンテンツだけが、洗練された編集やプロモーションによって紙というプレミア商品になって流通していくと予想しています。そしてこれは、佐渡島さんの発言を違った方向から支える認識となるものです。
つまり、出版の市場の状況が変わっていくなかで、作家と編集者と出版社がタッグを組んで紙の本を作り日本国内だけで商売していける人数はもう限られてしまっているわけです。そうした認識のなかで、佐渡島さんは実にシビアに未来を予測し、トップの中のトップの作家と海外や電子書籍も含めた市場で戦っていくという宣言をされているわけです。そしてそのロジックのなかには、アマチュアの存在やセルフパブリッシングの意義を否定するニュアンスは特にありません。現状と未来をいち早く理解しているからこその、嫌みのない、きわめて正しい発言であると腑に落ちました。
それを理解するのに、「プロかアマか」という軸に「メジャーかインディーズか」という軸を加えて四象限のマトリックスを作ってみるとわかりやすいと思います。
1. プロかつメジャー
2. プロかつインディーズ
3. アマかつメジャー
4. アマかつインディーズ
多くの人が認識しているのは、「1. プロかつメジャー」と「4. アマかつインディーズ」の2つだと思います。ところが、ネットの登場やセルフパブリッシングの登場で、「2. プロかつインディーズ」に属する作品がどんどん増えていることは、本書をここまでお読みになった読者であれば十分に理解されていることと思います。そして佐渡島さんが語っているのは「1. プロかつメジャー」の世界の話であるわけです。
むしろ私がここのところ気になっていたのは、「3. アマかつメジャー」をに属する言説です。
新潮社の校閲は、あいかわらず凄い。 小説の描写でただ「まぶしいほどの月光」と書いただけで、校正の際に「OK 現実の2012、6/9も満月と下弦の間」とメモがくる。 このプロ意識! だからここと仕事をしたいと思うんだよなー。(新潮社の校閲すごいっ! 校閲のプロの仕事っぷりが話題)
石井光太さんのツイッターをきっかけに盛り上がった校閲の話題で、校閲という技術のすごさに感嘆が集まるのは理解できますし、特に新潮社のそれは有名です。
しかしこの話題が広がるにつれ、違和感を感じるようになったのは、出版社から何冊かの作品を上梓している作家たちが、プロの編集・校正・校閲を根拠に自作の品質自慢をし、さらに同じことを根拠にセルフパブリッシングの作品に懐疑的であることを宣言しはじめるのを見てからです。
たしかに、出版社でそれを専業としている編集・校正・校閲の技術は素晴らしいわけですが、それはその技術者たちが素晴らしいのであって、作家が誇るべきものではないはずです。作家は、作品の本質こそを誇るべきで、むしろ、「自分の作品は編集・校正・校閲があまいところがあるけれど読むべきところがある」と胸を張って言えることのほうが大事なのではないでしょうか。まして、その欠如を理由に他者の作品を貶めるのは、どこか筋違いでもあり、自分のケツの穴の小ささを暴露するようでもあります。
佐渡島さんのプロアマ論の線引きが、冷静な現状認識と覚悟から生まれているとすれば、伝統的な出版ビジネスのシステムを前提にしたプロアマの線引きは、古きよき自分たち小世界を守るためのポジショントークにすぎません。そしてそれは、根はアマチュアなんだけど出版業界が元気な時代だからメジャーで出すことができた、という「3. アマかつメジャー」に属する人とみなすこともできるわけです。そして、これから危機感を覚えなければならないのは、この「3」に属する人なのではないかと思います。なぜなら、「専属編集者がつくべき超一流は世の中に100人もいない」というのは、極論でありつつも方向性としてはその通りだろうし、作家としての本質的価値に自覚的な人は、メジャーでもインディーズでも(むしろ両方をうまく使い分けながら)成功していくだろうということが、もうほとんどわかってしまっているからです。
佐渡島さんは、イベントの最後に作家と編集者の本質について語りました。それは以下のように要約ができます。
超一流か、そうでないかの違いは、誰かから受けた影響に自覚的であるかどうか。知らず知らずのうちに取り込んでしまっている他人のアイデアに自分で気づき、心を微分していって自分にしかないものを発見できるかどうか。他人の考えを借りるのは楽で、普通の人はそれに慣れすぎている。作家の心を微分して一流から超一流に導くのが編集者の本分。
この言葉こそは、「プロかアマか」あるいは「メジャーかインディーズか」という垣根を超えて響く金言であったと思います。
おしらせ
この記事を含む全文は、以下の本に収録されています。
セルフパブリッシング狂実録 - 誰でも作家時代の作家論 [Kindle版]
著者:佐々木 大輔
出版:焚書刊行会
(2013-05-09)
関連リンク
大ヒット漫画を支える編集者・佐渡島庸平に聞く「プロとアマの境界線」
イベントの全文書き起こし。