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三人の王、三つの城〜『夢と狂気の王国』評

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どこかで見た映像、どこかで聞いたエピソードばかりなのに、これまでにない作品になってる。

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ジブリの新作映画が公開されるたび、NHKや日テレで制作過程のドキュメンタリー番組が公開される。それをいつも見ている人もいるだろうし、あるいは、宮崎駿や高畑勲のインタビュー記事を丁寧に追っている人もいるだろう。発売されたばかりの『風に吹かれて』(著・鈴木敏夫)を読んだ人もいるかもしれない。そういう人たちにとって、この映画はどこかで見た映像、どこかで聞いたエピソードばかりだ。でも、これまでにない奇妙な後味の残る作品になっている。

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ポイントはおそらく、この映画が新作のプロモーション目的でもなく、ジブリというブランドのプロパガンダでもない、というところにある。夢と狂気に生きる男たちの本音や矛盾が、作り手の下心をほとんと感じさせずに鑑賞できる(まったくない、と言えると爽やかだったんだろうけど、ないわけではない)。

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夢と狂気の王国とはなにか?
第一義的には、宮崎駿とスタジオジブリのことだろう。映画自体も、そういう読みを否定しない。
しかし映画を観ていくうちに思う。
スタジオジブリというのは、三人の王による連合国なんだなと。

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一人目の王は、宮崎駿。
薪ストーブと吹き抜けが印象的なアトリエを根城にする孤独の王。
従えるのは、女性と子ども。
ただひとり、庵野秀明が仔犬のように近寄ってくる。

二人目の王は、高畑勲。
精神と時の部屋とでもいうべき根城から出てこないナマケモノの王。
従えるのは、四六時中どころか何年も何年もつきあわせているプロデューサー・西村。
最新作『かぐや姫の物語』の「最後の監督作品」というキャッチコピーは、スタッフからの「これで最後にしてくれ」という叫びにも聞こえる。

三人目の王は、鈴木敏夫。
都心に仕事部屋を構え根城とし、そこで日ごと外の空気を吸おうとする王。
従えるのは、カワンゴこと川上量生や各種取引先。
一代の賭け、宮崎吾郎は、ジョーカーか負債か。

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映画のなかで、庵野秀明がこんなことを言っていた。

「宮さんにとっては、自分以外はみんなゲタ」

それはつまり、すり減ったら履き替えるゲタだということ。
同じく映画のなかで、ジブリのスタッフがこんなことを言っていた。

「犠牲にしても得たいものがある人はいいけど、自分の中に守りたいものがある人は長くいないほうがいい」

差し出すものがなければいけない。
だから宮崎駿と長くつきあえる人はそういない。
ところが、高畑勲と鈴木敏夫だけは、何十年もそれにつき添っている。
この狂気のような関係を持続するコツが、それぞれ自分の王国を持つことなのではないか。

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映画のなかで、とりわけ印象的なシーンがある。
引退記者会見の直前、宮崎駿が、楽屋の窓から見える何気ない都市の風景から、空想の翼を羽ばたかせ、目の前にある光景を夢のような景色に変えていく瞬間を捉えたものだ。
このイマジネーション。
それにかたちを与える力。
この底なしの魔力に、みんなが夢中にさせられてきたんだなと一瞬で納得できるシーンだ。

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この記者会見のくだりには、おそろしいシーンがある。
宮崎駿はまだ「あと10年は仕事をしたい」と言うのだ。

すでに長編アニメの監督は引退を宣言しているから、それ以外の仕事のことだろう。
宮崎駿にとって、スタジオジブリというのは長編アニメを作るための箱でしかない。
もちろん、長編アニメはひとりでは作れないから、組織が必要だ。ところが作家・宮崎駿としては、ひとりでもできることがある。まだまだやりたいことがある、ということだ。

そういうつもりはないのかもしれないけど、宮崎駿個人は、スタジオジブリという組織よりも長生きするかもしれないし、それだけの能力と才能がある。そしてそうなることに躊躇いを感じない。そのことに、戦慄した。

ラストシーン。宮崎駿はこんな風に問いかける。

「僕は、自分の幸せのために生きる、という人の意味がわからないんです。鈴木さんが自分の幸せのために働いてますか? 僕は、映画を作るたびに不幸になってますよ」

これを、他者の幸福のための献身のススメだと受け取ることは難しい。
宮崎駿にとって、自分以外はみんなゲタだからだ。
スタジオジブリがすり減って歩きづらくなったら、他のゲタに履き替えて、あるいは裸足になってでも駆け出すだろう。

不世出の王はいまも、自分の幸福さえ二の次にして、ひたすら創作に身を捧げるつもりでいる。
夢と狂気の王国の奴隷となって。

おまけ


新宿のバルト9には、こんな風な屋内庭園ができていました。
木々の濃厚な香りがして、素晴らしい演出でした。

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カワンゴ責任編集によるSwitch。特集は「スタジオジブリという物語」。


渋谷陽一による鈴木敏夫のインタビュー本『風に吹かれて』

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内容がいいのにタイトルで損していると評判の本。

たしかにおもしろかった。宮崎駿や高畑勲、そして庵野秀明のインタビューはこれまでにも読んできたけれど、鈴木敏夫の目線で語られるとこうなるのか、という発見が多かった。特に、周囲が思う以上に深い絆で結ばれている宮崎駿と庵野秀明の師弟関係とかね。確かに、そんな絆の話なんて当人たちはしないわけだから、第三者に語ってもらわなければわからないわけだ。

制作が常に遅れる高畑勲のエピソードも、この時期だからこそさらにおもしろい。『かぐや姫の物語』が公開されるあと数か月以内に読むのがベストだと思います。

渋谷陽一関連でいうと、宮崎駿のインタビュー本『風の帰る場所―ナウシカから千尋までの軌跡』があります。つまり、『風に吹かれて』ってのはその文脈上にあるタイトルなんですね。宮崎駿と高畑勲という風に吹かれ続けた鈴木敏夫という非凡な人物の、30年に渡る仕事を振り返る稀なるインタビュー集になっています。おすすめです。

風に吹かれて
鈴木 敏夫
中央公論新社
2013-08-10



関連リンク


『風立ちぬ』で宮崎駿が考えた、もうひとつのエンディング
【読書感想】風に吹かれて


関連本


同じく渋谷陽一のインタビュー本。
こちらも滅法おもしろい。



こちらはインタビュー本ではなく、自身の手になる文章を集めたもの。
おもしろい個所が多すぎて、折り込みだらけになっています。

出発点―1979~1996
宮崎 駿
スタジオジブリ
1996-08

折り返し点―1997~2008
宮崎 駿
岩波書店
2008-07-16

小黒祐一郎の解説で『火垂るの墓』の演出意図を読むことのススメ

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hotaru2

先週の「スタジオジブリのプロデューサー鈴木敏夫の『仕事道楽』は、組織のNo.2の参考になる」というエントリが思いのほか多くの人に読まれたことで、実はちょっとバツの悪い感じがしていました。最後の一文の「高畑勲ってのはめんどくさい性格だなw という思いを深めました」というのが、なんだか貶めているようで後味が悪かったから。

そこで、ちょっとした罪滅ぼしに『火垂るの墓』を観た。実に、20年ぶりの鑑賞です。

そもそも『火垂るの墓』をもう観なおそうと思ったのは、昨年、小黒祐一郎の「アニメ様365日」という連載において、『火垂るの墓』に関する異例の長期連載を読んだのがきっかけです。

第481回 『火垂るの墓』
第482回 『火垂るの墓』続き
第483回 『火垂るの墓』の制作進行
第484回 『火垂るの墓』で空襲に立ち合う
第485回 『火垂るの墓』のおばさん
第486回 『火垂るの墓』の「他者」
第487回 『火垂るの墓』の顔を見せない老婆
第488回 『火垂るの墓』の庭からの視線
第489回 『火垂るの墓』の二人の清太

ちょっと長いですが、『火垂るの墓』を観なおすきっかけになった部分を2箇所だけ抜粋して紹介します。


第487回 『火垂るの墓』の顔を見せない老婆

おばさんの家にやっかいになっている時期に、清太と節子は海に遊びに行く。浜辺で鬼ごっこをするかのように走り回っている2人。(中略)その後で、2人は海で遊ぶのだが、その途中で老婆と子どもが手を休めて、清太と節子を見つめるカットが入る(3-115)。初見時に、このカットをたまらなく怖いと思った。(中略)

前にも触れたように清太は、戦時下だというのに勤労動員で働いているわけでもないし、家の手伝いをするわけでもない。かといって勉強をしている様子もない。この場面では、妹と一緒に海にやってきて楽しく遊んでいる。清太はそこにいる老婆と子どもが塩をつくるために働いていることまで知っているのに、罪悪感を感じる様子もなく、平気で遊んでいる。

清太と節子が遊んでいる描写が続き、観客がそれに感情移入して楽しい気持ちになったところで、ポンと2人を見ている老婆と子どものカットが挿入される。老婆と子どもは後ろ姿であり、どんな表情であるのかは観客には分からない。それが怖い。老婆と子どもは、清太と節子の様子を見て微笑んでいるのかもしれないし、戦時下に遊んでいるのに呆れているのかもしれない。むしろ、呆れた顔を描写してくれた方が観る側としては気が楽だ。

 後ろ姿だけを見せられたことで、観客はその表情を想像することになる。老婆と子どもの表情について想像するうちに、清太と節子が戦時下に遊んでいるのがとてつもなく悪いことのように感じられ、感情移入していた自分までが悪いことをしていたような気になってしまう。老婆と子どもが微笑んでいると思った観客もいたかもしれないが、僕にはとてもそのように受け止めることはできなかった。このカットで、高畑監督はなんて意地悪なんだろうかと思った。


子供の頃は、そんな演出意図なんてまったく分からずに見ていたのですごく新鮮。
そしてもうひとつ。

第488回 『火垂るの墓』の庭からの視線

火事場泥棒は2度描写されており、今回話題にするは最初の火事場泥棒だ。空襲が始まり、人々が防空壕に駆け込んでいるとき、清太だけが別の方向に走る。民家に飛び込んで、台所にあった鍋ごと料理を盗む。そして、居間で座り込み、おひつにあったご飯を手づかみで食べ始める。おひつのご飯を食べてるのを見せた後で、その民家の庭から居間を撮った(という想定で作られた)カットになる。手前に朝顔の鉢とヒマワリがあり、その向こうに居間があり、座り込んでおひつのご飯を必死に食べている清太の背中が小さく見える。このカットが、僕にとって大変にインパクトのあるものだった。衝撃的だった、と言っても大袈裟でないくらいだ。 (中略)

観客が清太に感情移入していたならば、彼が火事場泥棒をやっているのを、息を飲んで観ていただろう。「そんなことをやっちゃ、マズイよ」と思いながら観ていたわけだ。あるいはもっと感情移入して、自分が人の家に上がり込んで手づかみでご飯を食べてるような感覚で観ていた観客もいただろう。それが Cut207で、いきなり客観的なカットに切り替わる。そこで観客は、清太を客観的な視点で観るよう強要されるわけだ。そして、自分が感情移入していた主人公が、少し距離をおいて見ればただの泥棒でしかないことを思い知る。(中略)

自分自身の話を続けると、主観的演出から客観的演出への切り替わりがショッキングだっただけでなく、庭から清太を見つめる視点のあまりの冷たさに慄然とした。冷たく厳しく主人公を見つめている人格の存在が感じられ、その存在を怖いと感じたのだ。僕がカットの割り方でここまで衝撃を受けたのは、これが最初で最後かもしれない。


なんだかんだまた高畑勲がこわい、という話にまたなりそうだけどもw

ちなみに、借りてきたDVDは、ホームパーティの最中というおよそ鑑賞には不適切なタイミングで「ちょっと観てみる?」くらいのテンションで流したんですが、画面の緊張感にみんな引きずられて、結局最後まで観てしまいました。
不思議なラストシーンが醸し出すなんとも言えない後味まで含めて、完璧に映画に引きずり込まれました。

あらためて、すごい映画です。すごい監督です。

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